絶対王政期―強制徴募



 絶対王政期の常備軍とは国王の私設軍隊である。それはあくまで国王の財産であり、国王のために戦う軍隊であった。常備軍は国民軍ではなく、その兵士たちも国民軍のように一般国民から成り立っているのではなかった。いわば傭兵の軍隊が常備軍だった。

 常備軍の士官は主に貴族によって占められたが、この地位については希望者が多いため人材不足になることはなかった。いや、むしろ士官の数は多すぎたと言っていいだろう。1787年時点で見ると18万人のフランス軍隊の中に士官は9355人おり、将軍は781人いた。フリードリヒ大王のプロイセン軍は19万5000人の軍隊で将軍は僅か103人だったという。

 逆に言えば士官よりも兵隊を集める方が大変だったことが分かる。形の上では常備軍は志願兵によって構成されることになっていたが、実際には詐欺、誘拐まで含めたあらゆる方法によって兵隊をかき集めていた。そのため、兵士たちの中には様々な種類の人間がいた。主に貴族から成る士官たちが、自らの小作人の息子を兵士に入れることがあった。だが、大半はろくでもない連中で、他の軍隊から逃げ出してきた脱走兵、兵役を条件に牢屋から出してもらった犯罪者、借金や女がらみのトラブルから逃げてきた者、飲んだくれ等々が兵士の正体だった。

 勿論、中には好き好んで兵隊になった連中もいる。軍隊は一見華やかな冒険の場所であったし、それに憧れて軍隊に飛び込んだ連中も多い。例えば後にナポレオンの下でナポリ国王になったミュラは聖職者への道を捨てて軍隊に入り、やはり元帥となったオージュローもウェイターの仕事などに失敗した後で兵士になった。「勇者の中の勇者」ネイは法律事務所勤めを辞めて騎兵になった。こうした者の中には幸運を掴んで士官の地位に駆け上がった男も存在した。他の絶対王政国家でもこうした事例はあり、例えばオーストリアの将軍ヒラーは平民出身ながら軍の中で成り上がった人物である。

 逆に兵士の仕事を食っていくための方便と割り切っていた連中も多かったようだ。中には戦争が始まりそうになるととっとと逃げ出し、他国の兵隊に潜り込む者もいた。シュタイニンガーという兵士はピエモンテ―ヴュルテンベルク―オーストリア―オランダ―プロイセン―デンマーク―ファルツ―再びオーストリア―バイエルン―再びピエモンテ―ナポリ―フランス…と軍隊を渡り歩いた。少なくとも軍隊に入っている間は食うことはできる、という判断だろうか。

 外国人部隊の存在もこの時代の特徴だ。1790年時点で79あったフランス軍歩兵連隊のうち、23連隊が外国人連隊だった。特に多かったのがスイス人連隊(11)で、これは昔からスイス人が傭兵として有名だった名残だろう。他にもドイツ人、アイルランド人など様々な国籍の連隊が存在したが、中には名前だけ外国人部隊で中身はほとんどフランス人というのもあったようだ。

 ただ、徴兵制度によって集められた部隊が存在しなかった訳ではない。いつの時代もフランスには民兵組織が存在した。彼らは時に強制的に集められた。特に戦時になると、一定数の民兵を集めようとする政府とそれに抵抗する地域という構図が必ず登場したのである。ヴァンデの反乱もこのパターンだ。

 1778年時点の民兵組織は4年間の兵役義務を持ち、志願兵で必要な数を集められなかった場合はくじ引きで選抜された。徴兵数は人口に応じて割り当てられており、基本的に社会的地位と関係なく独身者が対象になる筈だった。だが、実際には徴兵された大半は貧乏な者や農民たちであり、時には既婚者ですら駆り出された。民兵は106の大隊に組織され、常備軍の予備部隊として補給基地を守ったりした。

 実はこの民兵組織の動員方法は、これから見ていく革命期の兵士動員方法とほとんど変わらない。絶対王政期には脇役だった民兵が革命期に主役になったと理解した方がいいだろう。民兵制度そのものは革命政権によって1791年に廃止されるが、その兵士たちはすぐに国民志願兵の中心になって対外戦争で活躍する。



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