小伍長



 1796年5月10日のロディの戦い後に、兵士たちがボナパルトを「ちびの伍長」(petit caporal)と呼ぶようになったという話がある。例えば以下のようなものだ。

「[ロディの戦い後]日が暮れてようやく戦闘の興奮がおさまったころ、
『橋を渡ったときの司令官は、歴戦の下士官みたいだったな。きょうのところは伍長だ! いや、雲つくような大男ばかりの部下将軍たちにくらべたらずいぶん小さく見えるから、チビ伍長だな』
 と兵のひとりがいうと、
『まったくだ。これから戦闘のつど、司令官に階級をつけてやろうぜ』
 と、一同があいづちを打った」
長塚隆二「ナポレオン(上)」p167


 さて、この話はどこまで事実としての裏付けがあるのだろうか?

 ボナパルトが同時代人から「ちびの伍長」と呼ばれることがあったのは間違いないようだ。1804年に発行されたHenry Redhead Yorkeの"Letters from France"には、ナポレオンに批判的なフランス議員が「ちびの伍長」(p298)という言い方をしていた、と書かれている。同じ1804年発行でJean François de Saint-Lambertが著者の"Buonparteana"にも同じ表現が出てくる(p49)。そこでは英国の新聞が皮肉たっぷりに命名したものとして、この言葉が紹介されている。ナポレオンが政権をとっていた時代に、既にこの言葉が使われていたことは間違いなさそうだ。

 後の時代に書かれた回想録の中にも、この言葉が登場してくる。Louis Antoine Fauvelet de Bourrienneの"Memoirs of Napoleon Bonaparte, Vol. I"では、ナポレオンがクーデターを起こす直前にバラスがナポレオンについて述べた台詞の中で使われている(p239)。Mathieu Dumasの"Précis des événemens militaires, Tome III"には、兵士たちの言葉として「ちびの伍長は新しい戦争のやり方を見つけやがった。あいつは俺たちの銃剣より足の方を使っている」(p101)というのを紹介している。割とよく知られていた言葉であることは確かなようだ。

 問題は、この「ちびの伍長」という言葉がいつ、どのようにして使われ始めたのかということ。一般に言われている「ロディの戦い後」という説の元になっているのはEmmanuel-Auguste-Dieudonne Las Casesの本だろう。

「指揮官の若さゆえに、もしくは他の要因から、風変わりな習慣がイタリア方面軍でできあがった。戦闘の後に最も年上の兵士たちが会議をひらいて彼らの若い将軍の新しい階級について話し合い、将軍が宿営地に現れた時には古参兵たちからその新たな肩書きで出迎えられたものだった。兵たちはロディで彼を伍長に、カスティリオーネで軍曹に任命した。かくして長いこと兵士たちによってナポレオンにつけられたあだ名『ちびの伍長』が生まれた」
"Memoirs of the Life, Exile, and Conversations of the Emperor Napoleon, Vol. I" p108


 長塚の書いている話が基本的にこれを写したものであることは一目瞭然だ。ただ、この文章をそのまま信じていいかどうかは難しいところ。まず、Las Casesの言葉を信じるならカスティリオーネ以降のナポレオンの渾名は「ちびの軍曹」にならなければいけない。残念ながら、ちびの軍曹という渾名があったという話は全く聞いたことがない。

 Las Casesがナポレオンの言葉を引用しているのではなく、地の文で書いている点も気になる。Las Casesはフランス革命中は国外に亡命しており、ナポレオンが政権を握った後に帰国している(Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p240, Philip J. Haythornthwaite "Who was who in the Napoleonic Wars" p183)。つまり、彼はロディの戦場にはいなかった。彼が地の文で残した記録は、一次史料でななく二次史料ということになる。

 では一次史料はないのか。ある。Barry Edward O'Mearaがナポレオンの言葉として引用している文章の中に、ナポレオン自身がこの渾名について語ったものが存在するのだ。

「(前略)私がとても山がちで地形の困難なコレ=ディ=テンダで指揮を執っていた時、その地に入るため軍が狭い橋を通らざるを得なくなった。私はそこでの軍務が最も困難になると見て、兵たちを絶えず警戒状態に置くため1人の女性も同行させないよう命じた。この命令を実行するため私は、命令違反の場合は死刑という条件で1人の女性も通さないよう橋に2人の大尉を置いた。命令が厳守されているかどうか見るため自ら橋に行ったところ、そこに女性の群れが集まっているのを見つけた。彼女らは私に気づくや否や、私を罵り始め、大声で叫んだ。『そこのちび伍長、あんたがあたしらを通すなって命令したんだね』。かくして私は軍からちびの伍長と呼ばれるようになった」
"Napoleon in Exile, Vol. II p50"


 この話を信用するなら、最初にボナパルトを「ちびの伍長」と呼んだのは兵士ではなくおそらく娼婦だったということになる。場所もロディではなくコレ=ディ=テンダ。時期もロディの戦いがあった1796年ではないと考えた方が良さそうだ。

 もちろん、ナポレオン本人の言葉も事件(というほど大げさなものでもないが)から20年以上経過した後に発せられたものであり、信頼度は決して高くはない。それでも、第三者(Las Cases)が残した記録ではなく、当事者が言った言葉である点は見過ごすことはできないだろう。他にもっといい史料が見つかればともかく、そうでない場合にはこのナポレオンの話が「ちびの伍長」の由来を説明している一番もっともらしい説ということになる。

 ただ、個人的には別の可能性もあると思っている。最初に紹介した同時代の使用例を見てもらいたい。小伍長という言い方をしているのは「ナポレオンに批判的なフランス議員」であったり、フランスと敵対していた「英国の新聞が皮肉たっぷりに命名したもの」としてこの渾名が登場している。

 この2例以外にも、ナポレオンが政権を取っていた時代に使われた例はいくつもある。一つは1804年発行の"Procès Instruit par la Cour de Justice Criminelle et Spéciale, Tome Cinquième"なる本で、ナポレオンの暗殺を試みたジョルジュ・カドゥーダルらの陰謀に関する捜査報告書のようだ。捜査に当たって目撃者らに聞いた話が載っており、そのうち一つ、ルーリエ嬢の証言は以下のようなものだ。

「ルーリエ嬢はルブルジョワ[陰謀家の一人]がある日『我らが第一執政本人に対して一撃を与えるや否や、我らは白い羽飾りをつけてロンドンへ戻るだろう』と述べたと宣言した。また別の日には同じ人物が悪態をつきながら『ちびのボナパルトは生きていいよりも長く生きた。我々がパリに行けば目にもの見せてやる。ヤツには別れを告げるつもりもない』と言った。ある時、彼らは彼[ナポレオン]をちびのボナパルトと呼んだ。またある時にはちびの伍長と呼んだ」
"Procès Instruit par la Cour de Justice Criminelle et Spéciale, Tome Cinquième" p68


 もう一つ、デュジャルダンの証言の中にもこの渾名が出てくる。

「彼ら[陰謀家]はルイ18世をフランス国王に復位させることだけを話し、その目的にたどり着くための最も正しい手段と彼らが言っていたのは、ちびの伍長を滅ぼすことだった」
"Procès Instruit par la Cour de Justice Criminelle et Spéciale, Tome Cinquième" p81


 これらはいずれも王党派の陰謀家が口にしたものであり、兵士たちの言葉ではない。彼らが愛情や敬意を込めてナポレオンのことを「ちびの伍長」と呼んだとはとても思えない。

 彼ら陰謀家と同じく王党派に属するジャーナリストも、やはりこの渾名を使っている。ジャン=ガブリエル・ペルティエは8月10日事件を機に英国へ亡命し、共和国とナポレオンに対して反対する雑誌"L'Ambigu"(曖昧な、という意味らしい)を発行した筋金入りの反ボナパルティストだ。彼に関しては、少なくとも2回「ちびの伍長」という渾名に言及した例が出てくる。

 一つは1803年に出版された"The Trial of John Peltier"に紹介されている。そこでは陰謀家たちの言葉として「曰く、今や足かせを火に投じる時だ――曰く、ちびの伍長は殺され、体制は変更されなければならない――曰く、短刀とピストル、ラッパ銃をアレル、デメルヴィユ、そしてセラッキ[陰謀家たち]に配れ――曰く、怒れる者たちは混乱の日が近づいてきたと豪語していた――そのうちの一人は言った。我々はこの政府が転覆するまで休むことはなく、そのためにはあらゆる手段を取る、などなど」(p241-242)というものを紹介している。

 もう一つは1813年発行の"L'ambigu, Vol. XL."。ベルティエについて触れた部分で「ブオナパルテがその成功の大半をこの疲れ知らずの士官[ベルティエ]の才能と奉仕に負っていたことを踏まえておくべき理由がある。彼[ベルティエ]は幕僚部のあらゆる細部に深く注意し、実務にあっては冷静かつ几帳面で、何事も計算したうえで実行し、正確で動揺しない冷静さで、ちびの伍長がその暴挙と性急な行動からいつも引き起こしていたあらゆる大失敗を正す役割を絶えず背負っていた」(p361)と記している。

 この渾名を悪意を持って使っていたのは、ナポレオンの政敵ばかりではない。William Vincent Barréが1804年に出した"History of the French Consulate, Under Napoleon Buonaparte"では、フランス軍人で軍内に大勢の友人を持つ人物について以下のような話を載せている。

「彼はその国のあらゆる階層の人々と接点を持って知り合いになっており、しばしば様々な方角へ数百マイルの旅行を行い、いつも公的または富裕な家にばかり泊まる訳ではなかった。そして、既に述べた例外を除き、彼はしばしばブオナパルテがプティ・コルス、プティ・カポラル、プティ・グルダン、プティ・ジャン・×××などと言い表されているのを聞いた。
 フランス語に精通していない人のために、忠実な臣民がブオナパルテに授けた名誉ある称号を翻訳すれば、以下のようになる。ちびのコルシカ人、ちびの伍長、ちびのごろつき、ちびの悪党などなど」
"History of the French Consulate, Under Napoleon Buonaparte" p296


 軍内でも悪口として「ちびの伍長」が使われる例があったとの指摘も存在する。1804年に出版された本には「フランスの立法府においてすら多くのメンバーが現在のフランス政府に不満を抱き、軍の何人かの士官はブオナパルテを『ちびの伍長』と呼ぶことに何の良心の咎めも感じていない事実も知らされた」("The Literary journal" p413)と書かれている。

 結局、探し出した中で悪意があると言い切れない事例は1つしか見つからなかった。パリにいた人物が1801年に出した手紙の中で以下のように触れている。

「あなたの質問に答えるうえで、まず私はちびの伍長が第一執政としての服装を身につけているのを見たことがない点をあなたに伝えるところから始めましょう。彼は多くの時間を、彼の邸宅であるマルメゾンで過ごしていると言われています。フランス劇場かオペラのボックスシートにいるときを除いて滅多に公に姿を現しません」
"Paris as it was and as it is" p70


 同時代における大半の使用例が純粋な「悪口」だったと思われるこの「ちびの伍長」。もしかしたらこの渾名の由来は政敵による誹謗中傷だったのではなかろうか。欧米では時に相手の使った悪口を自らの愛称にしてしまう事例がある。ナポレオンの「小伍長」も、最初は悪口として使われていたのが、時間の経過とともに愛称に転じた、とは考えられないだろうか。



“ちびの伍長”と兵士



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