ブオナパルテの戦争



 ナポレオン・ボナパルトは軍人だった。彼の生きた時代は四半世紀に渡る長い戦争が行われた時期であり、当然ながら彼もまた数多くの戦争に参加した。歴史上まれに見る名将であったため、彼が参加した戦争については様々な書物で詳しく説明されている。

 だが、その中にはかなり寂しい扱いしかされていない戦いもある。詳しい伝記などでは紹介されているものの、詳細に述べられている彼の有名な戦い(マレンゴ、アウステルリッツ、ライプツィヒ、ワーテルローなど)に比べれば通り一遍の説明で終わってしまうようなものだ。簡略な伝記などではあっさりと省略されて終わり。それは彼が1794年から95年にかけてかかわったイタリア戦線での戦闘だ。

 1793年暮れのツーロン攻囲戦は有名である。95年暮れに起きたヴァンデミエールのクーデターで彼が果たした役割も、多くの書物できちんと描写されている。しかし、この両事件の間については、彼の個人史的な部分(例えばテルミドールの反動時に逮捕されたことなど)こそよく知られているが、彼が軍人としてした仕事についてはほとんど知られていない。

 まだナポリオーネ・ブオナパルテと呼ばれていた当時の彼は、ツーロンの勝利によって1793年12月22日に准将(Général de Brigade)に任命された。そして翌年2月にはイタリア方面軍の砲兵指揮官となっている。当時のイタリア方面軍指揮官はデュマビオンだったが、Paddy Griffithによると彼は当時イタリア方面軍に派遣されていた派遣議員たちの操り人形に過ぎなかったという。同軍の実権を握っていたのは派遣議員のサリセッティとリコール、そしてマクシミリアン・ロベスピエールの弟であるオーギュスタン・ロベスピエールだった。

 だが、恐怖政治の絶頂期の派遣議員たちがどれほど強大な権限を持っていたとしても、彼らは基本的に軍事の素人に過ぎない(カルノーなど一部の例外はあったが)。オーギュスタンやサリセッティが頼りにしたのが、作戦立案を担当していたブオナパルテ准将と最前線で指揮を取ったマセナなどの指揮官たちだったという。特に18世紀中ごろにこの地方での軍事作戦を指導したブールセ将軍の手記(未出版)を読んでいたブオナパルテの役割が非常に大きかったのだ。

 この時期の彼と関連の深い作戦は3つあった。1794年4月のサオルジオ攻略、同年9月の(第1次)デゴの戦い、そして1795年11月のロアーノの戦い。94年の2回の作戦に於いてはイタリア方面軍に所属していたブオナパルテ自らも作戦に参加したが、95年の作戦とのかかわりはより間接的なものだった。それぞれについて彼の果たした役割を見てみよう。

 1794年初頭の段階でサオルジオ攻略をイタリア方面軍に命じたのは公安委員会のラザール・カルノーである。Martin Boycott-Brownによると、カルノーはサオルジオを中心に長さ20マイル以上の防衛線を山岳部に敷いているピエモンテ軍を打ち破るためにはリヴィエラを前進してピエモンテ軍を迂回する必要があると指摘していた。この迂回作戦は1745年にブールセの協力を得たド=メルボワ元帥が実施したものと同じであり、その意味では両軍によく知られていた作戦であった。

 この時、イタリア方面軍で具体的な作戦立案に当たったのがブオナパルテだった。彼は当初は海からの攻撃を予定していたオネリア(ピエモンテの港町)への攻撃について、陸上からより手早く行う案をまとめて派遣議員の認可を得た。攻勢は4月6日から始まり、9日には(マルモンによると)1発の弾丸を撃つこともなくオネリアを占領。側面を迂回されたピエモンテ軍は防衛線から退却し、28日にはフランス軍がサオルジオを奪取した。

 9月の戦闘は、連合軍の反撃に対応する過程で生じた。テルミドール反動でロベスピエール派が没落した影響のため一時期逮捕されていたブオナパルテは、イタリア方面軍の砲兵指揮官の地位は失っていたが未だに同方面軍にとどまって活動していた。連合軍の反撃に気づいた彼はイタリア方面軍指揮官であるデュマビオンの命令を受けて反撃計画を立案した。

 この時の作戦計画は、この後1796年にブオナパルテが行ったイタリア遠征初期段階の作戦とほとんど同じだった。モンテノッテへと前進してピエモンテ軍とオーストリア軍の連絡を遮断する。フランス軍の前進に対して連合軍はデゴへと退却し、この地で両軍は衝突した。最終的に連合軍が退却し、リヴィエラとロンバルディアの境をなす分水嶺はフランス側の手に落ちた。ブオナパルテ自身はさらなる攻勢を考えていたが、公安委員会の反対にあって実行できなかった。なお、デゴの地では1796年にも激しい戦闘が繰り広げられた。

 以上2回の作戦に対し、1795年のロアーノの戦いについてはブオナパルテそのものはほとんど関与していない。この年の5月、西部方面軍への転任を命じられたブオナパルテはパリへ移動。ここで浪人生活を過ごしていたのだが、彼がイタリア方面での作戦について記した覚書が当時の戦争大臣の目に止まり、7月末には陸地測量部(Bureau Topographique)への配属が決まった。陸地測量部の実際の業務は戦略計画の立案であり、ブオナパルテの覚書はそのまま当時のイタリア方面軍指揮官ケレルマンに対する命令となった。しかし、ケレルマンの反対でこの命令は実行されなかった。

 結局、ブオナパルテの計画を実行に移したのはケレルマンの後任としてイタリア方面軍司令官となったシェレールだった。ケレルマンが指揮を取っている間にフランス軍は連合軍の反撃にあって支配地を失っていたが、シェレールはそれを取り戻すよう命令を受けて11月半ばから攻撃を開始。連合軍側で指揮官交代があったそのタイミングで戦闘を行い、悪天候の中で連合軍を追い返すのに成功した。

 ヴァンデミエールのクーデターで活躍したブオナパルテは、この時には既に国内軍指揮官の地位を得ており、新たに成立した総裁政府にも大きな影響力を有していた。1796年1月に総裁政府はシェレールに対して早急に新たな作戦を実行に移すよう命じているが、そこにもブオナパルテの影が窺える。

 後方から最前線に一方的に命令を出す者は、ほとんど最前線部隊からは嫌われるものである。この時のブオナパルテもそうだった。シェレールは部下のマセナに対してブオナパルテが「より狂気じみた計画」を実行するよう総裁政府を焚き付けていると愚痴をこぼし、マセナはブオナパルテを「パリの陰謀家」、オージュローは「低能」呼ばわりした。

 しかし、結局総裁政府は最前線の不満よりヴァンデミエールの英雄を優先した。同年3月にはシェレールはイタリア方面軍指揮官の地位を失い、やがて将来は皇帝になるべき男がイタリアへやって来た。



ナポリオーネ・デ=ブオナパルテのちナポレオン1世(1769-1821)



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