デュマの「赤いバラ」





「姿容のめでたきに強いて雄々しく男装したる可弱き少女にてありき」
("Blanche de Beaulieu" 1887年版の挿絵)


 三銃士や巌窟王などの作品で知られるアレクサンドル・デュマが初めて小説集を出版したのは1825年だった。その中に「Blanche de Beaulieu, ou la vendéene」という話が含まれていた。彼は後にこれを書きなおし、1831年に「Blanche de Beaulieu; La Rose Rouge」という題名で出版している。後に英訳本の簡略版「Marceau's Prisoner」が出され、それを山岸藪鶯が「紅薔薇」の名で翻訳したものが1896年の雑誌「太陽」9月号に掲載された(翻訳の存在を指摘してくれたシェヘラザード氏に感謝する)。英訳はこのページの中にある「The Red Rose; A Tale of the War in La Vendee」で読むことができる。

 話の中身は以下のようなものだ。1793年12月、反乱がほとんど鎮圧されたヴァンデにおいて、フランス共和国軍の若きマルソー将軍が残党狩りを行っていた。彼はある王党派の集会を襲撃し、そこで男装した若い女性を見つける。彼女の名はブランシュ・ド=ボーリュー。反乱軍リーダーの一人ド=ボーリュー侯の娘である。一目ぼれしたマルソーは彼女に兵士の扮装をさせて助け出し、ナントにある実家に連れていった。だが、やがて彼女の正体はばれ、彼女は逮捕される。この当時、反乱に関係した者たちは問答無用で処刑されていた。彼女を救い出そうとしたマルソーは牢獄を訪れ、そこで彼女と結婚を約束してパリへ向かう。共和国の英雄である自分の妻ならばギロチン送りを免れるだろうと考えたためだ。マルソーはパリでロベスピエールと出会い、ブランシュの赦免状を手に入れる。後は彼女が処刑されてしまうより前にナントへ戻るだけだ。マルソーは必死の思いで馬を走らせるが…。

 作品の中にはデュマの父親(同じくアレクサンドル・デュマという名だった)がマルソーの友人として登場するほか、他の作品に登場する農民などが姿を見せているようだ。あらすじを読めば分かる通りベタベタの恋愛物であり、ストーリーはある意味でありがちなものだ。ただ、実はこのマルソーなる若き将軍、歴史上に存在した実在の人物なのだ。

 フランソワ=セヴラン・マルソーは1769年3月1日シャルトルに生まれた。ナポレオン・ボナパルトと同い年だ。彼は1784年にフランス軍のアングローム連隊に入隊した。革命の理想に共鳴していた彼は1789年のバスティーユ襲撃に参加。1792年には志願兵大隊の中佐に出世し、同年のヴェルダン包囲にも参戦したほか、ヴァルミーの戦いの際にその近くでオーストリア軍と戦火を交えていた。1793年にはヴァンデの反乱鎮圧に送り込まれ、同年4月から7月までマインツで戦った「マインツ部隊」とともに戦闘に参加した。

 マインツ部隊を事実上仕切っていたのはジャン=バティスト・クレベール准将であり、マルソーは彼の親友だった。ヴァンデにおける彼らの活動は着実に王党派を追い詰め、その過程で活躍したマルソーは10月16日に准将へ昇進した。翌17日、ショレで王党派と共和国軍が激突。マルソーは共和国軍中央部隊を預けられて奮闘し、勝利に貢献した。マルソーはさらにロワール河北岸へ逃げた王党派軍を追う。11月10日には少将に昇進し、11月22日には西方軍(ヴァンデ鎮圧に当たっていたフランス軍)の臨時指揮官となった。12月12−13日にはル=マンで王党派軍に決定的な一撃を与え、12月23日にはサヴネーでこれを全滅させた。ヴァンデにおける共和国軍の勝利に最も貢献したのはクレベールとマルソーだと言われる。なお、デュマも1793年12月にヴァンデ付近にいたらしいが、マルソーらがヴァンデ北部で活躍していたのに対して彼はヴァンデ南部で活動していたようだ。マルソーとデュマが友人だったというのは小説家の創作だろう。

 だが、反乱がほぼ収まった後で共和国軍が行ったヴァンデでの虐殺に対しては、マルソーは徹底して反発した。地獄部隊を指揮したテュロー、「ヴァンデの屠殺者」の異名をとったウェステルマンなど、女子供関係なく住民を虐殺した共和国軍人もいたが、人道主義者だった若き将軍マルソーは血に餓えた兵士たちからヴァンデの女子供を助け出すために奔走した。しかし、彼の常識に基づいた主張や行為は、革命の狂乱の中では無力であった。大量殺戮に耐えられなくなったマルソーはヴァンデからできるだけ遠くへ配置換えしてもらうよう申し出、1794年初頭にアルデンヌへと向かった。

 彼がヴァンデにいた最後の時期に、一つのエピソードが伝わっている。1793年12月、おそらく18歳になったばかりの若いヴァンデの女性が共和国軍に捕まった。彼女の名はアンジェリーク=マルガリート・ド=ムリエル。マルソーは彼女をラヴァルの町に避難させて匿ったが、町の政府関係者は彼女を有罪だと見なし、ギロチン送りとした。彼女は死の間際、自分の形見としてマルソーに時計を送った。デュマはこの史実をヒントに小説を書いたのだろう。まだ20代前半の若き共和国の英雄に、10代後半の美しい反乱軍の娘。ロミオとジュリエット以来、飽きることなく繰り返されてきた王道パターンである。

 やがてマルソーはヴァンデを去り、アルデンヌ方面軍で外国相手の戦闘に身を投じた。1794年6月にはフルーリュスの戦いに加わって右翼軍の指揮を取っている。さらにサンブル=エ=ムーズ軍で戦い続けたマルソーだったが、1796年9月19日、ドイツからの退却中にアルテンキルヒェンで負傷した。移動させることすら不可能なほどの重傷のために彼は取り残され、その身柄はオーストリア軍の手に落ちた。オーストリア軍指揮官であるカール大公は自らの主治医を治療のためマルソーの下に送ったが、9月21日にマルソーは死去した。オーストリア軍は遺体をフランス軍に返還し、彼の葬送の際には弔砲を鳴らした。

 エルティング大佐は著作の中で以下のように述べている。

「クレベールの友人であり『少年将軍』として知られたフランソワ・マルソーが最初に将軍の地位に上ったのは22歳の時だった(見た目はさらに若かった)。思いやりがあり、勇ましく、激しやすく、そして騎士道精神に溢れた彼は、特別あつらえの緑色のユサール(軽騎兵)用制服を好んで着用し、胸元には婚約者の細密画(ミニアチュール)を鎖でぶら下げていた」

 この細密画に描かれていたのがアンジェリークなら話には綺麗なオチがつくのだが、残念ながらそれは事実と異なる。マルソーの婚約者の名はアガト=ルプレートル・ド=シャトージロンという、レンヌ在住の貴族の娘だった。ヴァンデでの作戦行動中、何度かこの地に宿泊したことのある彼は、アンジェリークを助けるより前に彼女と出会って恋に落ちていたのだ。彼はヴァンデを去るときに、自分の生涯を回想した文章を記して婚約者に託している。

 そう、おそらくマルソーはアンジェリークに特段の感情は抱いていなかった。彼がアンジェリークを助けたのはル=マンの戦い後のことだが、この時彼は数多くの女性や子供を兵士たちの乱暴狼藉から守ろうと奔走していた。マルソーにとって彼女は助け出した大勢の人間の一人に過ぎなかったし、実際マルソーは彼女を助けるとすぐにその後の処置を部下に任せて自分の仕事に戻っている。ラヴァルの町へアンジェリークを避難させたのも正確に言えばマルソーの部下の仕事であり、マルソー自身はおそらくラヴァルで一回だけ彼女に会った後すぐに戦場へ去っている。そして、彼は二度と彼女と会うことはなかった。

 アンジェリーク自身がマルソーにどんな感情を抱いていたのかは不明だが、彼女は死刑執行人に対して最後の望みとして自分の時計をマルソーに届けるよう頼んだ。この時計を受け取ったマルソーは「なんて可哀想な子供だ」と言って泣いたという。それは恋人を失ったことに対する涙ではなく、吹き荒れていた恐怖政治の犠牲者に対する哀れみの涙だったようだ。




フランソワ=セヴラン・マルソー(1769-1796)



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