1801年―地中海・中近東



・アレクサンドリアの戦い(1801年3月20−21日)

 この年の春、イギリス政府はアバクロンビーに1万5000人の部隊を預け、エジプトのフランス軍を追い出すべく地中海へ送り出した。キースの地中海艦隊に守られてエジプト海岸に3月2日に到着したイギリス軍だったが、約束されていたトルコ陸軍の増援はなかった。イギリス軍は8日にアブキール要塞からの砲撃を受けつつ上陸し、ムーアの前衛部隊がフランス軍前線を蹂躙した。この戦闘にはフランス軍1800人、イギリス軍8000人が参加し、損害はフランス軍350人、イギリス軍650人(600人の説もある)だった。アバクロンビーは続く3日間を大砲などの上陸にあてた。

 フランス軍のムヌーはエジプト全体で2万4000人の部隊を保有していたが、18日にアブキール要塞が落ちたときにはまだ1万人がアレクサンドリアへの行軍中だった。アバクロンビーはゆっくりと前進し、この時点で街から5キロメートル以内に迫っていた。ムヌーは19日にアレクサンドリアに到着し、3月20−21日の夜に攻撃をしかけた。まずイギリス軍左翼に陽動を行い、ついで2個部隊がイギリス軍右翼と中央右側を攻撃した。アバクロンビーが到着するまで指揮を取ったムーアはフランス軍の陽動に気付き、敵の主力攻撃に対して予備を投入した。戦闘は夜の間続いたが、イギリス軍は踏ん張り、3000人(3500人の説もある)の損害を蒙ったフランス軍は夜明けの後にいったん退却した。イギリス軍の損害は1400人(1500人の説もある)だったが、その中に夜明け直前に重傷を負ったアバクロンビーも含まれていた。フランス軍は1万人、イギリス軍は1万2000人が戦闘に参加していた。この勝利でイギリス軍の評判は回復し、フランス軍の士気は大きく落ち込んだ。

 ムヌーはアレクサンドリアに退却した。アバクロンビーの後を継いだハッチンソンはアレクサンドリアへの攻撃を後回しにして先にカイロを攻撃することを決意。4月中旬にアレクサンドリアのフランス軍を監視するための6500人(クート指揮)を残したうえでハッチンソンは残るイギリス軍を率いてナイル川を遡った。また、イギリス軍はインドからの増援部隊も紅海へ送り込んでいたが、このベアード率いる5000人の部隊はその後あまり役立つことはなかった。

 6月1日にハッチンソンの部隊は陸路やってきたトルコ軍と合流。連合軍の兵力は約1万2000人に達した。これに対しカイロを守るベリヤールの下には1万3000人の兵力があったが、大半は病人で実兵力は5000人に過ぎなかった。抵抗する能力をほとんど失っていたカイロのフランス軍は6月27日には降伏した。イギリス軍は再びアレクサンドリアへ戻り、8月17日から(16日からの説もある)アレクサンドリアを包囲。31日(9月2日の説もある)にはムヌーと4500人のフランス軍(1万500人の説もある)がイギリスの軍門に下った。フランス軍はイギリスの船に乗って9月15日までにはエジプトを去り、フランスへ送り返された。


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