1800年冬季グリゾン戦役―ナポレオンの解説



グリゾン方面軍

 グリゾン方面軍は、主に最初に予備軍と命名されたことにより、ウィーン政府の関心を引きつけていた。メラスと彼の参謀は、オーストリア軍の背後を遮断しマレンゴの戦いで全イタリアを征服した第1予備軍の編成と行軍に関連して欺かれたことについてオーストリアの最高軍事会議を批判していた。従って今やこの第2予備軍の戦力を突き止め、行軍を見張ることに最も切実な注意が払われた。前者[第1予備軍]は実際より弱いものと思われていた。こちら[第2予備軍]はより強いものと想定された。フランス政府はあらゆる方法を使ってオーストリアのスパイを誤りに導こうとした。ナポリでの戦役とトレビアの戦いでよく知られているマクドナルド将軍がこの軍の指揮官に任命された。それはいくつかの師団で構成されており、その戦力は4万人に達するという見解が簡単に作られたが、実際にはたった1万5000人から成っていた。その動員が怠け者の注意を引いたパリ志願兵の部隊と、良家の若者で構成された部隊がそこへ送られた。単なる軍事作戦に関して言えばこの軍は役立たずで、たった1個師団で構成されモローかブリュヌの麾下に置かれた方がより実用的だっただろう。しかしオーストリアはかつての予備軍に関する印象を保ち続けていたため、この第2軍も第1軍と同様の機動を企図しイタリアかドイツで彼らの背後に襲い掛かるものと想像した。このように恐れた彼らは、それがドイツかイタリアのどちらに振り向けられても食い止められるようティロルとヴァルテリーヌの出口にかなりの軍団を配置した。かくしてこの部隊はドイツ方面軍もしくはイタリア方面軍のどちらかの4万人近い敵を麻痺させる効果を持った。この第2予備軍は、その実際の戦力よりもその名前によって、ドイツにいるフランス軍の成功により効果的に貢献したと言ってもいい。

 ホーエンリンデンの戦いが完全にドイツの状況を決したところで、グリゾン方面軍はヴァルテリーヌへ下り、またボッツェンの街道から出てティロルの中心部へ浸透して、イタリアで作戦をするよう命令を受けた。マクドナルド将軍はこの作戦をのろのろと実行し、僅かな決断力しか示さなかった。彼と不和であったブリュヌ将軍がイタリア方面軍という素晴らしい軍の長であるのを見るのが不満だったのか、あるいはこうした種類の遠征がこの将軍の性格に合わなかったのかもしれない。こうした作戦がもしマセナ、ルクルブ、あるいはネイによって指揮されていたならば、最も重要な結果を生み出していたかもしれない。シュプルーゲン峠越えは疑いなく困難が伴うものだっただろう。しかし冬は高山を越えるのに最も不都合な季節ではない。雪は硬く、天候は安定しており、そしてアルプスで懸念すべき現実的かつ唯一の危険である雪崩については全く恐れる必要がない。こうした高山ではしばしば12月に、乾燥して寒く、大気が極めて静かな素晴らしい天候の日があるものだ。

 グリゾン方面軍がとうとうシュプルーゲンを越えたのはようやく12月6日になってからで、彼らはキアヴェンナに到着した。しかしこの軍は上エンガディーヌを経由してボッツェンへ向かう代わりに、イタリア方面軍の左翼後方に第二線を形成した。それは何の効果も生み出さず、戦役の成功にほんの僅かな貢献すらしなかった。というのも、上エンガディーヌへ派遣されたバラギュエイ=ディリエール軍団はあまりにも弱体だったからだ。その行軍は敵に食い止められ、彼らがボッツェンまで浸透したのはようやく1月9日になってから、つまりミンチオ川沿いでイタリア方面軍が戦った会戦から14日後、同軍のアディジェ渡河から6日後のことだった。マクドナルド将軍がトレントに到着したのは、敵軍がそこからイタリア方面軍左翼によって追い払われた後の1月7日だった。モンスイとロシャンボー麾下のイタリア方面軍左翼はそこからロヴェレドへ進んでいた。1801年1月16日にイタリア方面軍によって締結されたトレヴィザの休戦はグリゾン方面軍も含んでおり、彼らはイタリア領ティロルに陣を敷いてその司令部はトレントに置かれた。

Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. II p63-66


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