1800年―地中海・中近東



・ヘリオポリスの戦い(1800年3月20日)

 エジプトではボナパルトの後任であるクレベールが名誉ある撤退への道を探していた。前年秋から始まっていた交渉は、1月21日のエル=アリシュの合意でオスマン=トルコからフランス軍のエジプト退却への合意を取り付けるに至った。だが、シドニー・スミスはイギリス政府の許可なしにこの合意を破棄。このニュースがカイロにいるクレベールのもとにたどり着いた3月18日には、イブラヒム=ベイのトルコ軍がエル=アリシュからカイロへと前進してきていた。ヘリオポリスにキャンプを張った4万の敵に対し、クレベールの1万人(1万2000人の説もある)は3月20日夜明けに奇襲を加えた。トルコ軍はわずかに抵抗しただけで北方へ退却。損害はフランス軍600人、トルコ軍8000−9000人だった。フランス軍は追撃して夜までにこの部隊を叩き、27日にはトルコ軍をエジプトから追い出した。一方、カイロで起きた反フランス暴動は4月下旬まで完全には鎮圧できなかった。さらにクレベール自身も6月14日に暗殺され、後任にはムヌー将軍が就く。

 マルタ島では6月からイギリス軍による攻撃が本格化。すでにグレアム大佐率いるイギリス・ナポリ軍2300人とマルタ民兵4000人がフランス軍と対峙していたが、さらに1500人の増援を率いてピジョー将軍が到着した。孤立し、食糧不足となったヴォーボワは9月4日に休戦を申し出て5日に降伏した。フランス軍守備隊はフランスへ帰還することになった。


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