1799年―スイス戦線



・連合軍攻勢

 戦争が始まる前にフランスの衛星国となっていたスイスにはマセナの下に3万人が配備されるはずだったが、実際にこの地にいたのは2万4000人に過ぎなかった。一方、連合軍はスイスの東部国境にホッツェの2万人(2万7500人の説もある)、ティロルにベレガルデの4万7000人がつき、さらにフォーラルベルクにアウフェンベルク麾下の3000人(7000人の説もある)が配置されていた。マセナは3月に行われたライン方面での攻勢に合わせてグリゾンとフォーラルベルクへ侵入するが、ホッツェとベレガルデをフェルトキルヒまで退却させたところで前進は止まった。一方、マセナの右翼を構成するルクルブはドゥソールのイタリア方面軍と協力してエンガディンへの侵攻を開始。サン=ゴッタルド峠をはじめいくつもの峠を越えてイン川上流域へ侵攻し、ツェルネッツからやって来たラウドンを叩いてナウデルスまで前進したが、こちらもここで進撃がストップした。23日にマセナ自身が率いたフェルトキルヒへの攻撃も撃退された。

 シュトックアッハでジュールダンが敗北した後はマセナがスイスとラインの両軍を指揮することが決定。双方を合わせた兵力は8万人(10万人の説もある)に達し、マセナはそのうち3万4000人をマンハイムにいるコローの指揮下に置いてライン防衛に充てた。4月22日からはエンガディンにいるルクルブに対してベレガルデが反攻を開始。ルクルブとドゥソールはエンガディンを捨てて後退した。また、4月下旬からスイス各地で反乱が起きたが、スールトなどの手で鎮圧された。5月にはホッツェとベレガルデがライン河上流域への逆侵攻を開始し、この地域にいたシャブラン師団を追い払った。加えてイタリア方面ではスヴォーロフがフランス軍相手に勝利を重ね、ポー河流域を席巻していた。モロー率いるイタリア方面軍との連絡も断たれて孤立の危険にさらされたルクルブ師団は5月21日にベリゾナから北上しサン=ゴッタルド峠を越えてスイス方面へ退却。一方、ちょうどその時期にオーストリア軍のベレガルデはスヴォーロフの召集に応じてイタリア方面へと南下した。5月下旬には連合軍がサン=ゴッタルド峠を奪取している。

 5月時点でマセナはスイスに7万2000人の兵力を保有していた。一方、兵力11万人(11万5000人の説もある)を保有するカール大公はライン方面から11万人の兵力を率いてスイスへ前進。その圧力を受けたマセナは5月19日に退却を開始。20日にオーストリア軍はボーデン湖の上流と下流でライン河を渡った。マセナはオーストリア軍の前進を止めるべく5月26日(25日の説もある)に個別に前進してきたオーストリア軍2個部隊をトゥール河西岸で攻撃。ナウエンドルフ率いるカール大公の前衛部隊はアンデルフィンゲンでトゥール河を渡って退却し、橋を破壊してフランス軍の追撃を止めた。一方、フランス軍右翼のウディノはフラウエンフェルトでトゥール河を渡ったホッツェの前衛部隊に対する攻撃を行った。フランス軍中央を率いるネイは村の下流で川を渡ったが、オーストリアのペトラッシュ将軍率いる6000人はフラウエンフェルトを頑強に守り、その日遅くにスールトの増援が到着してようやくフランス軍はこの村を確保できた。しかし、ホッツェが増援を率いて来たためフランス軍右翼はトゥール川を渡河できず。ネイの部隊もやがてナウエンドルフの反撃を受けてトゥール川対岸から引き上げた。参加したフランス軍兵力は2万3000人。損害はフランス軍800人、オーストリア軍は2200人でうち捕虜1500人(損害5000人でうち捕虜3000人の説もある)だった。フランス軍は後退を続け、ネイが後衛となった。カール大公(ホッツェの説もある)は27日、8000人の部隊でフランス軍中央のネイの部隊7000人をヴィンタートゥールで攻撃。損害はフランス軍800人、オーストリア軍1000人だったが、マセナはさらに司令部をチューリヒへ後退させ、散開していた部隊を防衛のため集結させた。

・第一次チューリヒの戦い(1799年6月4日)

 チューリヒ東方にあるチューリヒベルクを中心に強力な防衛線を敷いたマセナのフランス軍4万5000人に対し、カール大公のオーストリア軍5万3000人が対峙した。7月2日にまずフランス軍右翼のスールトに対しイェラチッチの部隊がウィティコンを攻撃し、これを奪取。3日も夕方からオーストリア軍の攻撃があったが、これはフランス軍の反撃により撃退された。

 4日、カール大公の部隊はマセナに対し本格的な攻撃をしかけた。フランス軍右翼からはイェラチッチの縦隊が突入しチューリヒのラッペルシュヴィル門まで奪ったが、ガザン旅団の反撃で追い払われた。左翼にはローゼンベルクの部隊が攻撃を行ってゼーバッハを取った。ウディノが騎兵を率いて反撃に出たが、オーストリア軍に追い返された。戦闘の中心はチューリヒベルクで、カール大公はここに3個縦隊で攻撃をかけた。チューリヒベルクを守っていたスールトの部隊は激しい戦闘を行って抵抗した。午後2時からの攻撃でオーストリア軍は一時フランス軍の砦を突破してその背後まで進出したが、スールトと後方から予備の擲弾兵を率いてやって来たマセナの逆襲に遭ってその進撃は止まった。損害はフランス軍1200人、オーストリア軍3200人だった。この日は引き上げたカール大公だったが、彼は再度の攻撃を計画。しかし、その前に一日あった休戦期間を利用して兵力で劣るマセナは退却を実施。150門の大砲を捨ててリンマット河を渡り、チューリヒを西方から見下ろす場所に布陣し直した。強力な防衛線を見たカール大公は6月7日に攻勢を中止。ここまでに損害はフランス軍1700人(1600人の説もある)、オーストリア軍3400人(4400人の説もある)に達していた。カール大公は自らも陣地を強化した。この時点でフランス軍は5万9000人、オーストリア軍は6万1000人(7万2000人の説もある)をスイスに布陣していた。

 両軍は大きな動きのないまま夏を過ごす。カール大公はコルサコフのロシア軍増援を待ち、マセナは政府による度重なる攻撃命令を無視してイタリアの戦況を観察していた。最終的にマセナはジュベールによる攻勢を支援するため右翼を強化し、8月14日から17日にかけて(16日までの説もある)山岳戦闘の専門家であるルクルブがオーストリア軍を攻撃した。14日にはシュヴィーツでフランス軍1万2000人がオーストリア軍4600人を攻撃して勝利。損害はフランス軍170人、オーストリア軍1800人だった。また14−16日にはアムシュテークでフランス軍8000人、オーストリア軍4400人が戦闘。損害はフランス500人(600人の説もある))、オーストリア2300人(1300人の説もある)だった。フランス軍はサン=ゴッタルド峠の奪回に成功した。この間、14日にはスールトが連合軍の注意をひきつけるためチューリヒで攻勢に出ている。

 左翼で後退を強いられたカール大公だが、ほぼ同時期にコルサコフ率いるロシア軍2万5000人(2万8000人の説もある)が増援としてやって来た。カール大公は16−17日の夜にチューリヒ北西で3万5000人の兵を率い、アール河を越えた反撃を試みた。素早い架橋に失敗したオーストリア軍は、朝になってネイ将軍の1万人(1万2000人の説もある)が到着したため動きを封じられ、夕方には渡河を諦めた。マセナはこの反撃を受けて攻勢を中断した。

・ロシア軍アルプスへ

 連合軍の戦略変更に伴い、スヴォーロフのロシア軍がイタリアからスイスへ向かう一方でカール大公は3万6000人の兵とともに8月26日からライン河へ向かうことが決まった。スイスには分散したホッツェとコルサコフの6万人が残された。マセナはこの機会を捉えて連合軍の各個撃破を試みる。8月30日に予定していたコルサコフへの攻撃はアール河の増水によって中断されたが、その間にスールトとルクルブはホッツェの2万5000人の兵をグリゾンへ押し返していた。一方、スヴォーロフ率いる2万人はサン=ゴッタルド峠を越えるため9月15日にはタヴェルナへ到着した。しかし、彼らはそこでオーストリア軍の輸送部隊を待って3日間を無為に過ごす。ルクルブ率いる1万3000人は防御に適した峠をスヴォーロフによる攻撃から比較的簡単に守っていたが、ロシア軍別働隊6000人が東方から回りこんできたため、ロイス河をヴァッセンへと退却した。ロシア軍は24日にサン=ゴッタルド峠を奪い、25日には「悪魔の橋」を通過してアムシュテッテンに到着した。さらにロシア軍は26日にアルトドルフまでたどり着いたが、そこで山とフランスの船に守られたルツェルン湖を前に行き場を失った。スヴォーロフは東に向きを変えてムオタへ移動したが、28日にスイス北部の連合軍が退却し事実上包囲されたことに気づいた。ロシア軍は奮闘し、追撃してきたフランス軍に大ダメージを与える一方でグラールスまで前進した。だが、そこでコンスタンティン大公が山を越えて脱出しライン河にいるオーストリア軍とロシア軍に合流することを提言し、スヴォーロフはこのアイデアに従った。厳しい山岳部を抜け疲れきった生き残り5000人がコルサコフの部隊とコンスタンス湖付近で合流したのは10月下旬だった。

・第二次チューリヒの戦い(1799年9月25−26日)

 スヴォーロフの前進が遅れている間に、マセナはチューリヒ湖の両側にいるホッツェとコルサコフを同時に攻撃することにした。彼は連合軍右翼を占めるコルサコフの2万5000人(1万9600人の説もある)を3万9000人の部隊で(3万3500人の説もある)9月25日に攻撃した。マセナの左翼にあたるロルジュはコルサコフの右翼でリンマット川を渡り、ロシア軍を側面から攻撃。一方、正面からはモルティエの部隊がチューリヒへと攻撃を仕掛けたが、この方面ではロシア軍が反撃に出てきた。マセナは渡河攻撃の指揮をウディノに任せ、自身はモルティエの部隊と合流してアンベールとクラインの予備部隊をこの方面に投入した。側面から迫ったウディノの部隊はチューリヒベルクにまで攻撃をしかけたが、ホッツェのオーストリア師団の到着でコルサコフはどうにかこれを日暮れ前に撃退した。翌26日朝、チューリヒで包囲の危険性に晒されたコルサコフは危険を覚悟でエグリザウへの退却路を後退するが、フランス軍はロシア軍が晒した側面を攻撃し、チューリヒも奪回した。フランス軍の損害は4000人、連合軍は8000人だった。

 一方、チューリヒ湖南方ではスールトの1万1500人(1万1000人の説もある)が26日夜明け前(25日の説もある)にチューリヒ湖とヴァーレンシュタットの間でリント河を渡った。わずか2個大隊で守られていた連合軍の弱点を攻撃し、フランス軍はホッツェの部隊1万3000人をカルテンブリュンへと押し込み、夕方にはその町を占領した。ホッツェはその日の早いうちに戦死し、彼の後継者であるペトラッシュは全面退却を命じた。ゼンケンの後衛戦闘で1800人を失いながら連合軍はヴァーレンシュタット経由でライン河へ下がった。戦闘全体の損害はフランス軍1100人、連合軍3700人。スヴォーロフと連絡を取るために送り出されたイェラチッチのオーストリア軍も退却を強いられた。チューリヒの戦いは第二次対仏大同盟戦争のターニングポイントだった。

 コルサコフはイタリアからやって来るスヴォーロフを支援するため、10月に入って再度攻勢に出た。ライン河を渡って前進したコルサコフだが、側面をフランス軍に脅かされたため攻撃を諦めて退却。フランス軍の損害1000人に対し、連合軍の損害は3000人だった。スヴォーロフが退却を完了した後、スイスにおけるフランスの支配権を揺るがすような事態は生じなかった。


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