1799年―ナポリ戦線



・共和国

 ナポリではフランス軍の前進を妨げるのは補給不足と山賊だけだった。ガエタの要塞(守備隊3000人、3600人の説もある)は1月5日(1798年12月30日の説もある)にフランス軍に降伏。カプアは持ちこたえていたが、パニックに陥ったナポリの権力者たちは1月10日に休戦を申し出た。彼らはフランス軍がナポリを占領しないよう求め、代わりに国境の町を譲り賠償金支払いを約束した。15日、フランス軍の代表が最初の賠償を要求にナポリへ来た際に暴動が起こり、ナポリの共和主義者は秩序回復のためシャンピオネを呼んだ。マックもまた身の安全を確保するためフランスの保護下に入った。ケレルマン(息子)とデュエーム率いるフランス軍は20日からナポリへ前進。まだ残っていたナポリ正規軍(大半はスイス人とアルバニア人部隊)と志願兵が抵抗をしたが、23日にはシャンピオネはナポリを支配下に置いた。フランス軍は2万人を捕虜とした。

 シャンピオネはナポリでの共和国設立を支援すると宣言した。しかし、フランス軍がナポリ方面に兵力を割いていたことは、北イタリアに攻め込んできた連合軍に対する抵抗力を弱めることにもなった。2月下旬にナポリ方面軍の指揮官の地位を追われたシャンピオネはナポリを去り、マクドナルドが後を継いだ。彼が苦戦している北イタリアの友軍を支援するため北へ向かったのは、連合軍が相次ぐ勝利を収めた後の5月に入ってからだった。フランス軍が消えて軍事力の空白地帯となったナポリではイギリス軍とナポリ軍が反撃。6月14−15日にナポリを奪回したほか、セント=エルモ要塞を7月11日に、カプアを7月28日に、ガエタを8月1日に落とした。


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