1799年―イタリア戦線



・シェレールの苦戦

 北イタリアではシェレールが名目上6万人の兵力(守備隊を含めれば13万5000人という説もある)を持っていたが、そのうち半分近くはナポリ戦役のため南方へ送り出されていた。総裁政府から具体的な命令のないまま、シェレールは5万人のロシア軍(2万5000人の説もある)が戦場に到着する前に6万人のオーストリア軍に先制攻撃をしかけようとした。最前線にいた2万5000人の兵を2つに分けたシェレールは3月26日、モローがヴェローナを攻撃している間にガルダ湖岸へと前進した。オーストリア軍はシェレールの予想していたリヴォリではなくパドヴァに集結しており、またヴェローナからレニャーゴへ至るアディジェ川西岸には5つの防衛拠点を築いていた。フランス軍はこの拠点のいくつかを奪い、さらにセリュリエはリヴォリも奪取したものの、この日の戦闘でフランス軍はアディジェ河を渡ることができなかった。この日の戦闘による損害はフランス軍5500人、オーストリア軍7000人だった。その夜、メラスの不在で一時的に指揮を取っていたオーストリアのクライ将軍はモローが西岸の道路を確保していたヴェローナを守るべく兵を集め始めた。シェレールはオーストリア軍の反撃を予想して現在位置を確保していた。3月30日、モローを支援するためセリュリエの前衛部隊7000人がポロ(ペローナ)でアディジェ河を渡ったところ、クライの6000人(1万5000人の説もある)は反撃によってこれを河の向こうへ追い返した。損害はフランス軍2100人(5000人の説もある)、オーストリア軍400人。シェレールはヴェローナ北方から退却した。

 アディジェ河渡河を諦めたシェレールは、マニャーゴ付近に防衛線を敷いた。4月5日昼頃から戦闘が始まり、オーストリア軍中央は防衛されていないマニャーゴを奪ったものの反撃によって1000人の損害を出して退却した。南翼では戦闘の前半に激しい戦いが行われ、ヴィクトールとグルニエのフランス軍1万4000人がオーストリア軍7000人をトンバへ追い返したが、クライが予備兵力1万人を送り込んだためフランス軍は混乱してタルタロ河へ退却した。クライは続いてヴェローナへの南方からの接近路で健闘していたフランス軍中央のモローへこの予備部隊を振り向けた。モローは夕方に後退を命じられるまでその場に踏ん張った。全体ではフランス軍4万600人、オーストリア軍4万6000人が参加し、損害はフランス5000人(8000人の説もある)、オーストリア6000人だった。シェレールは翌日ミンチオ河を渡って退却し、12日にはアッダ河の背後まで退いた。シェレールの兵力はこの時点で2万8000人にまで減ってしまった。オーストリア軍のゆっくりとした追撃は15日に止まる。同日、戦場に到着したロシアのスヴォーロフ元帥が連合軍全体の指揮を取った。

・アッダ河渡河

 シェレールはロンバルディア平原西部の各要塞に8000人の守備隊を残していた。スヴォーロフはクライの2万人でこれの包囲を行い、残る5万人を率いて4月17日に泥の中で前進を始めた。連合軍はブレシアを奪い、20日にはクレモナ周辺に布陣したフランス軍の戦線に到着。21日にクレモナを占領した。フランス軍では解任されたシェレールの後任となったモローがアッダ河沿い120キロメートルに及ぶ戦線を確保しようとしていた。25日にレッコで行われた連合軍の攻撃は失敗し、さらにバグラチオンによって26日に再度行われた攻撃も成功しなかった。26日の戦闘にはフランス軍5000人、連合軍3000人が参加し、損害はフランス軍不明(捕虜100人)、連合軍400人だった。しかし、その間に連合軍はトレッツォで橋頭堡を確保し、メラスの4個師団がカッサノの橋を守っていたフランス軍を打ち砕いた。連合軍は27日にはアッダ河を全面渡河し、カッサノ西方でフランス軍と激戦になった。28日まで続いたこの戦闘にフランス軍は2万8000人、連合軍は2万4500人が参加し、損害はフランス軍7500人、連合軍2000人だった。モローはティチノ河への後退を命じたが、レッコから退却したセリュリエ師団3000人は連合軍に包囲されヴェルデリオで29日に(28日の説もある)降伏。2700人が捕虜になった。

 スヴォーロフは4月29日にミラノ入城。ミラノ要塞に立てこもる1500人のフランス軍に対応するための兵を残して5月1日パヴィアに司令部を移した。モローは部隊を2つに分け、一方はヴァレンツァでトリノへの道を塞ぎ、ヴィクトール率いる残り半分はナポリから増援に来るマクドナルドを支援するためアレッサンドリア南方へ向かった。スヴォーロフは2個師団をマクドナルドの対応に残し主力部隊は西へ進んだが、11日に(12日の説もある)ヴァレンツァ付近でポー河の渡河に失敗し、動きを止めた。この渡河作戦ではフランス軍1万2000人、連合軍3500人が戦闘し、損害はフランス軍600人、連合軍1300人だった。ただし、モローの部隊も兵力が少なく(9000人の説もある)、15−16日の夜にマレンゴ付近で8000人の部隊で行った反撃がバグラチオンの1万6500人に撃退された段階で彼はヴァレンツァを放棄した。損害はフランス軍500人、連合軍450人だった。モローはトリノを諦め、フランス軍は南方モンドヴィへ後退。ヴィクトールの部隊をマクドナルトに合流させるべく送り出す一方で、自らはジェノヴァにやって来たペリニョンの部隊と22日に連携した。スヴォーロフは5月27日にトリノに入城。彼はアルプスへ通じるルートに分遣隊を送る一方、ピエモンテ王国の復活を宣言した。さらに、5月末までに連合軍はミラノ要塞(4月30日ー5月24日)、フェラーラ(24日)、ラヴェンナ(24日)、リミニの守備隊を降伏させた。

・トレビア河の戦い(1799年6月18−19日)

 北上してきたマクドナルド軍は5月29日にルッカに到着。6月12日にはモデナを落とし1500人の捕虜を得た。14日に到着したヴィクトールの増援で兵力を3万5000人まで増やし、ピアチェンツァに向かった。スヴォーロフはその街を守るオット将軍の6000人を救援すべく、ベレガルデの1万人をモローへの対応に残して他の部隊で支援に向かった。ヴィクトール師団は16日(15日の説もある)にオットをピアチェンツァから追い出したが、スヴォーロフ、メラス、バグラチオンらの応援が17日に到着。各師団がバラバラに前進していたフランス軍は反撃を受け、ティドネ河からトレビア河へ退いた。フランス軍は1万9000人、連合軍は1万5000人が戦闘に参加し、損害はフランス2200人、連合軍不明。6月18日、マクドナルドは来援中の2個師団を除いた部隊で背水の陣を敷き、午前10時にスヴォーロフの5万人(3万7000人の説もある)が全戦線で攻撃を始めた。主な攻撃はフランス軍左翼の山岳部に差し向けられ、午後いっぱい行われた戦闘の間に双方とも予備をそこへ送り込んだ。数で劣ったマクドナルドは夜の到来とともに全軍を河の背後に下げた。モローが連合軍の背後を攻撃していると信じ、また2個師団の来援に力を得たマクドナルドは19日朝から全戦線で反撃。しかしヴィクトールの正面攻撃は双方に3000人の損害を出して止められた。メラスとオーストリア軍予備による反撃でヴィクトールの右翼にいた2個師団が壊走し、フランス軍はピアチェンツァへと逃げていった。フランス軍の参加兵力は3万3000人、損害はフランス軍1万人(1万6500人の説も)、連合軍4000人だった。マクドナルドは夜間にヌーラ河へ下がり、スヴォーロフはマクドナルドの退路を断つべく2個師団をモローへの対応に回した上で、20日にトレビア河を渡り追撃を行った。しかし、フランス軍はパルマからレッジョ経由で逃げ出し、連合軍は22日に追撃を中断した。マクドナルドは7月17日にはジェノヴァまで下がった。

 連合軍がマクドナルドに向かっている間にモローは2個部隊(1万4000人)を率い、6月21日(20日の説もある)にベレガルデの9000人(8000人の説もある)の後衛部隊をサン=ジュリアーノ(カッシナ=グロッサ)付近で攻撃した。グルーシーの正面攻撃はオーストリア騎兵によって止められたが、モローは午後になって予備部隊をベレガルデの側面に送り込み、オーストリア軍戦線を退却させた。損害はフランス軍1000人、オーストリア軍2500人(2300人の説もある)。しかしボルミダ河の西へ退却したベレガルデと、マクドナルドを叩いた後で戻ってきたスヴォーロフに包囲される危険を感じたモローは、部隊をジェノヴァへ引き上げマクドナルドと合流した。

・ノヴィの戦い(1799年8月15日)

 スヴォーロフの前衛部隊は6月27日にはノヴィに到着したが、オーストリアの最高軍事会議はマントヴァ、アレッサンドリア、トルトナの要塞が落ちるまで連合軍の前進を止めた。アレッサンドリアは3週間の包囲(1ヶ月の説もある)を経て7月1日(7月22日の説もある)に陥落。包囲に当たった連合軍は2万1000人、フランス軍守備隊は3100人で、フランス軍は2700人が捕虜、連合軍の損害は400人だった。1万2000人(1万1000人の説もある)の守備隊が守っていたマントヴァは7月27日に降伏(4月8日から包囲を始めて7月28日降伏の説もある)。フランス軍の損害は3100人で、連合軍は2100人だった。この間、モローはライン方面への転任が決まり、後任のジュベールは7月18日にジェノヴァに到着した。

 4万7000人にまで増強されたジュベールはフランス軍3万8000人を率いて8月9日にジェノヴァ海岸から北へ移動を開始。14日にノヴィを中心としたスクリヴィア河東方の戦線についたジュベール(3万5000人の説もある)は、接近してくるスヴォーロフの4万3000人(3万5000人、6万5000人の説もある)を迎え撃つ準備を始めた。ジュベールはマントヴァが降伏したためクライの率いるオーストリア軍2万人が連合軍に合流していることを知らなかった。スヴォーロフはフランス軍に対応の隙を与えないよう、15日早朝から全戦線で攻撃を始めた。フランス軍左翼に対する攻撃が始まって一時間のうちにジュベールは戦死したが、指揮を引き継いだモロー(まだラインに行ってなかった)は戦線を建て直した。スヴォーロフは戦略予備であるメラスに前進するよう命じ、中央ノヴィ周辺で2回の正面攻撃をしかけたが失敗。クライも攻撃を繰り返したがうまく進まなかった。午後5時、メラスの到着によりフランス軍右翼が危機に陥り、戦況はクライマックスを迎えた。メラスが南方から回り込むようにしてノヴィに向かい、クライが北方から攻撃する間にスヴォーロフは砲兵を前線に送り町への突入に成功した。モローによる退却の試みは連合軍によって分断され、壊走に変わった。特にフランス軍左翼は退却時に大きな損害を受け、ペリニョンとグルーシーが負傷して捕虜になった。ワトラン師団だけが秩序だった退却に成功。フランス軍の損害は7000人と捕虜5000人(4500人の説もある)、連合軍は7000人(6500人、8800人の説もある)だった。双方とも猛暑の中での戦闘で疲労しきっており、連合軍の追撃は勢いのないものだった。モローはジェノヴァへ戻り、部隊の再編に当たった。

・停滞

 その後はシャンピオネのアルプス軍が連合軍にちょっかいをかける程度だったが、やがて焦点は6月下旬から(8月5日からの説もある)連合軍1万1000人の包囲下にあるトルトナに移った。モローはトルトナ解放のために9月8日に部隊を送り出し、スヴォーロフが部隊をスイスへと向かわせていたためにこの攻撃は成功した。スヴォーロフは急ぎ部隊を戻し11日に守備隊1200人が守るトルトナは落ちた。しかし、続くウィーンからの命令によってロシア軍はイタリア戦線から姿を消した。連合軍の戦略変更によって圧力に晒されていたフランス軍は一息つき、連合軍にとっては南仏に攻め込む絶好のチャンスが失われた。両軍ともほぼ4万5000人の兵が残り、戦場は比較的静かな状態が続いた。

 秋になり、9月22日に新指揮官シャンピオネが着任した。彼はコニで包囲されているフランス軍守備隊救出のため1万5000人の部隊(2万から2万5000人との説もある)で限定された攻勢を開始。メラスはフランス軍左翼を攻撃するため3万5000人(2万9000人の説もある)の兵を集結させた。メラスが退却するものと期待していたシャンピオネは前進を続け、11月4日朝にトリノ南方60キロメートルのところにあるジェノラでフランス軍左翼がオーストリア軍前衛師団と戦闘に突入した。シャンピオネはオーストリア軍の右翼を包囲する計画だったが、中央を担当したグルニエ師団が午後早くに全面退却に移り、シャンピオネから退却命令をうけるまでヴィクトールがかろうじてジェノラ村付近にしがみついている状態だった。主力が退却した後になって迂回してきたデュエームが戦場にたどりついたがなすすべがなくこれも後退。メラスは翌5日にはフランス軍を山岳部へ追い返した(戦闘は4日のみの説もある)。損害はフランス軍6500人(7600人の説もある)、オーストリア軍2000人(2400人の説もある)。コニは12月4日(5日の説もある)に陥落したが、フランス軍はモンドヴィの線を冬の間確保した。


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