1799年―オランダ戦線



・オランダ上陸

 北部オランダにはイギリス・ロシア連合軍が上陸作戦を計画していた。上陸を考えたイギリス政府はプロイセン参戦の可能性なども期待し、イギリス陸軍が展開しやすいオランダに焦点を定めた。まずアバクロンビーの部隊が上陸場所を選ぶため8月8日に出港したが、悪天候のため彼の部隊1万8000人はおよそ3週間弱もの間オランダ沿岸を漂い続けた。部隊は27日にアムステルダム攻撃に向かうべく北部オランダに上陸したが、すでに奇襲の可能性は失われていた。この地域のフランス軍指揮官だったブリュヌは2万人の兵(春の時点では1万5000人の説もある)の大半をフランスへの進路を塞ぐべくオランダ南西部へ集結させており、北部の守備はオランダ人のデュモンソー将軍とデンデルス将軍に任せていた。後者はイギリス軍の上陸地点に部隊を集めるのに失敗。アバクロンビーのイギリス軍は混乱の中で上陸に成功した。上陸を巡る戦闘で連合軍は500人、フランス軍は1400人の損害を出した。

 イギリスのムーア将軍は続いて28日にヘルデルを占領。イギリス海軍は2日後に港に入ってオランダ艦隊を6000人の水兵とともに手に入れた。フランス軍は混乱に陥っていたため、この時すばやく前進していればアムステルダムを奪取できただろう。しかし、アバクロンビーの部隊は疲労し、輸送に必要な車両が極端に不足していた。彼はジープ運河沿いに防衛線を敷いてロシア軍とヨーク公の到着を待った。一方、フランス軍指揮官のブリュヌは9月2日にアルクマールへ到着。10日にはヴァンダンムのフランス軍1万人(7000人の説もある)がデュモンソーとデンデルスのオランダ軍(1万4000人の説もある)の支援を受けてイギリス軍1万7000人を攻撃したが失敗。損害はフランス軍2000人、イギリス軍200人だった。

・ベルゲンの戦い(1799年9月19日)

 9月中旬にヘルマン将軍率いるロシア軍1万2000人が到着し、ヘルデル付近の連合軍は4万8000人(3万5000人の説もある)に達した。一方、フランス軍は部隊を再編しワール川南方10キロメートルの場所でベルゲンとウーデ=カスペルの間に防衛線を敷いた。連合軍は会議のすえに3個部隊による攻撃を19日に行うことを決めた。アバクロンビーはフランス軍右翼を大きく迂回し、正面へはロシア軍が先頭に立って攻撃、ダンダス将軍が海岸沿いに半島南西部にあるアルクマール付近のフランス軍を攻撃した。ヘルマンの攻撃は早すぎ、一時ベルゲンを占領したものの部隊は混乱しフランス軍の反撃で押し返された。ホールンでフランス軍側面を迂回しようとしたアバクロンビーは中央部隊を助けようとしなかった。フランス軍は2万2000人、連合軍は2万3000人が参加。損害はフランス軍4000人(3000人の説もある)でうち2000人が捕虜(1000人の説もある)、連合軍はイギリス軍900人(1000人、1400人の説も)でロシア軍2000−3000人(3100人の説も)だった。連合軍は結局この日が終わった時点では最初の位置まで戻った。

 さらに4000人のロシア軍増援を受けた連合軍3万人は10月2日、エグモント=アーン=ゼーでフランス軍2万人を攻撃。今度はアバクロンビーがロシア軍の右翼をカバーするように機動した。しかし、突出したイギリス軍がロシア軍の支援を要請した時に、ロシア側指揮官のエッセンはこれを拒否。ベルゲンもアルクマールもフランス軍が確保しつづけた。損害はフランス軍3000人(1600人の説もある)、連合軍2000人だった。しかし、6日にカストリクムで行われた戦闘では2万4000人のフランス軍(1万7000人の説もある)相手に連合軍3万2000人(2万1000人の説もある)は敗北。雨と霧の中で行われた混乱した遭遇戦だったが、ブリュヌは陣地を守りきった。損害はフランス軍1400人、連合軍2500人(3400人の説もある)だった。天候の悪化その他の理由もあって連合軍指揮官は退却を決断。10月10日には休戦が結ばれ、8000人のフランス軍捕虜解放を条件に11月末までに平和裏に撤収することが認められた。連合軍が遠征で蒙った損害は9000人に達し、ほとんど何の成果もなかった。


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