1799年―地中海・中近東



・シリア遠征

 エジプトのボナパルトは2月10日にシリアへの行軍を開始。エジプトに守備隊1万人と上エジプトに逃げたマムルークを追撃する部隊5000人を置いておく必要があったため遠征軍に加わったのはわずか1万3000人、大砲52門のみだった。ボナパルトはオスマン=トルコのシリア総督アーメッド=パシャに最後通牒を送る一方、インドのマイソールでイギリス軍に抵抗しているティプ=サヒブにもメッセージを送った。ボナパルトは国境の町エル=アリシュを19日に占領(20日の説もある)。守備隊1500人(1000人の説もある)のうち750人が死傷し、フランス軍の損害は400人だった。30日(25日の説もある)にはガザを奪取。さらに北上したフランス軍はヤッファで最初の本格的な抵抗に遭遇したが、3日間の戦闘の後3月7日には強襲によって町を落とした。フランス軍は1万8000人、トルコ軍は4600人(6000人の説もある)が戦闘に参加し、守備隊の損害は2000人だった。捕虜2500人(2600人、3200人の説もある)は8日から10日の間にほとんどが射殺された。

 ヤッファに守備隊を残したボナパルトは250キロメートル北方のアクル(アッカ)へと前進。3月17日(19日の説もある)には1万1000人のフランス軍(1万2000人の説もある)がアクルに到着した。この地の支配者アーメッド(ジャザール)と亡命貴族フェリポーに指揮された守備隊(7000人)を甘く見たボナパルトはすぐに包囲を開始した(18日からの説もある)。しかし、海上経由で輸送していた攻城砲は18日にハイファの沖合いで行われた海戦でシドニー・スミスのイギリス艦隊に奪われてしまい、充分な砲撃ができない状態になっていた。フランス軍はまず28日に最初の総攻撃を仕掛けたが、地雷による城壁破壊がうまく行かず、攻撃は失敗に終わった。

 一方のオスマン=トルコ軍はアクル解放のためダマスカスに部隊を準備していた。ダマスカスのアーメッド=パシャは4月中旬におよそ3万3000人の部隊を率いてヨルダン川を渡河。これに対しボナパルトはガラリヤ湖北部方面にミュラの部隊を、南にクレベール師団を送った。4月16日、クレベールはオスマン=トルコ軍2万5000人(3万5000人、4万人の説もある)に対して攻撃を仕掛けたが、圧倒的に数の多い敵に対して苦戦を強いられる。だが、救援に駆けつけたボナパルトの攻撃によってオスマン=トルコ軍は大敗した。このタボール山の戦いで4000人(4500人の説もある)のフランス軍は300人(60人の説もある)の損害を出し、トルコ軍は500人(2000人の説もある)を失った。

 増援は倒したボナパルトだったが、アクルの攻撃には失敗した。改めてエジプトから攻城砲を運ばせてアクル攻撃に取り掛かったが、守備隊の大砲とスミスの艦砲計250門に妨害されたうえ、正面攻撃を繰り返したため被害が増える一方だった。5月10日に行われた攻撃が失敗した時点でフランス軍の士気は大きく下がり、ほとんどアクル攻撃は不可能になった。中旬にはイギリス海軍がロードス島のオスマン=トルコ軍をエジプトへ輸送しているとの情報がボナパルトの下に届き、彼は20日(21日の説もある)にアクル包囲を諦め、残った7000人を率いてエジプトへ引き上げた。

・アブキールの戦い(1799年7月25日)

 ボナパルトがカイロに戻りつつあった6月上旬には、すでにムスタファ=パシャのトルコ軍2万人(1万5000人でうち8000人は病気などで戦えなかったとの説もある)がエジプトの沖合いに姿を現していた。カイロへ進軍するチャンスがあったにもかかわらず、トルコ軍はしばらく沖合いにとどまり、7月15日になってやっとアブキール半島に上陸しそこの要塞を占領した。彼はトルコ軍(7000人の説もある)を3つに分け、要塞前面に2線の塹壕を掘り要塞の中には小規模な部隊を残した。ボナパルトは7700人(8000人の説もある)を集めて戦場に到着し、7月25日夜明けからトルコ軍第1線に攻撃を始めた。ランヌとドスタン師団を両翼へ送り、中央に生じた裂け目にミュラの騎兵を突撃させた。守備側は第2線へ退却。そこで歩兵の攻撃を持ちこたえたが、ボナパルトは砲兵を西の端へ集中させて守備側を弱らせた。最後は騎兵が敵の戦線を巻き上げて海へ追い落とし、ムスタファの部隊はその日の終わりには壊滅していた。損害はフランス軍1100人(970人の説もある)、トルコ軍5000人。ただ、ボナパルトは8月2日に要塞が落ちた段階でトルコ軍の損害を1万2000人と過大に見積もっており、他にトルコ軍の死者は1万3000人でうち1万1000人は溺死、行方不明が2000人、捕虜が5000人(ムスタファ含む)という説もある。

 捕虜の解放についてイギリス軍のシドニー・スミスと交渉している間に、ボナパルトは第二次対仏大同盟の欧州での攻勢を知り、エジプト軍の指揮権をクレベールに委譲して8月24日にフリゲート艦でエジプトを去った。10月9日、彼はフランスのフレジュスに到着した。

 一方この年、マルタ島では補給に苦慮したイギリス艦隊がほとんど封鎖を解き、ヴォーボワは再び補給を受けられる状況になった。


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