1798年―ナポリ戦線



・ナポリの戦乱

 ナイルの海戦で勝利を収めたネルソンは、その後ナポリに現れて宮廷を焚き付けた。フェルディナント国王は列強の参戦を期待して対仏戦争の準備を始め、ロシアの皇帝パーヴェルもイタリア遠征をやりたがっていた。10月6日、オーストリアのマック将軍がナポリ軍の指揮を取るため着任したが、オーストリアはまだ参戦するつもりはなかった。マックの到着を知ったフランスの中部イタリア軍指揮官シャンピオネはナポリ攻撃の準備を始めたが彼の部隊は散らばっており、11月23日に4万のナポリ軍(5万1000人の説もある)がカプアから5個部隊に分かれて北上を始めた段階で、フランス軍はローマに5000人の部隊(8000人から9000人の説もある)しか置いていなかった。2日後、ナポリ軍の一部はローマ郊外に到着し、シャンピオネはフランス軍を北へ後退させた。29日にフェルディナント国王はローマへ入城し、亡命していた教皇ピウス6世を迎え入れた。

 マックのナポリ軍最左翼はテルニを、最右翼はマリアーノを目指していたが、彼らはフランス軍によって止められた。マック自身がマリアーノを奪った段階でフランス軍の混乱した退却は収まり、西海岸にいたマクドナルドの6000人の部隊が戦場へやってきた。カサビアンカ将軍率いる東岸のフランス軍はナポリ軍の第4部隊をアスコリへ後退させ、イギリス艦隊の輸送でトスカナのリヴォルノへ上陸した5000人のナポリ軍は港を確保した後はほとんど動こうとしなかった。オーストリア軍の増援が期待できない状況で、マックは12月4日にローマ北方のウンブリアへ攻撃をしかけたが、チヴィタ=カステラーナの戦いでマクドナルドのフランス軍1万人に敗北。ナポリ軍は2万6000人が参加し2500人の損害を蒙った。フランス軍の損害は500人だった。マックは10日(9日の説もある)にも攻撃を行ったが失敗し、13日にはローマから逃げ出した。

 シャンピオネは12月後半はローマにとどまっていたが、ピエモンテのセリュリエ師団が救援に来るとの情報を得て2万3000人の兵(うち2000人は騎兵)を率いて南下。マクドナルド率いる前衛部隊は30日にはナポリ軍に接近した。マックは2万5000人の兵でもってカプア付近に防衛線を敷いていたが、国王一家のシチリアへの逃亡(12月23−26日)もあって軍の士気は上がらなかった。


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