1798年―アイルランド反乱



・反乱

 アイルランドでは引き続き反英闘争の準備が進められており、フランスにいるマクネヴィンとウォルフェ・トーンが軍事的支援を要望していた。それまでアイルランドは手薄だったイギリス軍は兵力増強を始めた。ダブリンを奪おうとする反乱軍の計画は3月に裏切りによって失敗に終わった。しかし5月下旬にはついに反乱軍が蜂起。24日にダブリン南西にいるイギリス軍に対して行われた戦闘はダンダス将軍の守備隊の反撃で数百人の損害を出して撃退されたが、孤立したイギリス軍への攻撃は成功。翌25日にはバナル・ハーヴェイ率いる1万5000人の反乱軍がウェックスフォードの守備隊を破った。だが、6月5日には続いて進撃したニュー=ロスでイギリス軍に敗北。イギリス軍指揮官レイクは6月21日にハーヴェイの再編した反乱部隊を再度叩き、さらにベルファスト南方のバリナヒンチで5000人のプロテスタント反乱軍に対しても勝利を収めた。

 フランス軍によるアイルランド支援はすでに反乱がほぼ鎮圧された後になって実行に移された。ロシュフォールを出港した最初の遠征軍がアイルランド北西のキララ湾に到着したのは8月22日だった。アンベール将軍は1150人の兵を率いて上陸し、民兵を一掃して内陸部へ前進を始めた。フランス軍は27日にレイク率いるイギリス軍2000−3000人(5000人の説もある)をキャッスルバーで撃破。イギリス軍に400人の損害を与えた。続いてフランス軍は北東に向きを変えベルファストへ向かったが、コーンウォリスが2万人(8000人の説もある)の兵を率いてシャノン川のカリック(バリナマク)でこれを迎撃。フランス軍は包囲され、9月8日に降伏した。イギリス軍の損害はわずかだった。

 アルディ将軍率いる2回目の遠征部隊3000人は9月半ばにブレストを出発した。遠征艦隊指揮官のボンパールはいったん西方へ陽動したあとでアイルランド北端のラフ=スウィリーへ向かったが、10月11日にウォーレン提督のイギリス艦隊に補足された。悪天候による被害に加え、12日朝からのウォーレンの攻撃でフランス軍は旗艦を含めた多くの船が降伏した。アイルランドのナショナリストであるウォルフェ・トーンもイギリス軍につかまった。27日にはコルト将軍率いる約1000人の第3陣がアイルランドへ到達したが、すでにアンベールが降伏したのを知ってなにもせずに引き上げた。アイルランド反乱を支援するフランスの試みは失敗に終わった。


――1798年に戻る――

――ホーム戻る――