1798年―地中海・中近東



・エジプトへ

 4月12日、ボナパルトは総裁政府からエジプト遠征命令を受けた。彼は3万5000人の兵を400隻の船に乗せて5月19日にトゥーロンを出港。この部隊の大半は彼の下でイタリアで戦った兵たちだった。ただ、馬は1350頭しか連れていなかった。

 6月9日にフランス艦隊はマルタ島へ到着。島を守る聖ヨハネ騎士団は1797年11月にロシアと防衛同盟を結んでいた。フランス軍のディリエールとドゼーの部隊が10日に上陸。わずかな抵抗を排して12日には(11日の説もある)ヴァレッタを占領した。フランス軍の兵力は2万8000人、マルタ騎士団は4000人だった。ボナパルトはそこに5日間残って島の行政改革を行い、ヴォーボワに4000人の兵を預けて島の防衛に残した。フランス遠征軍は19日にエジプトへ向けて出発した。

 イギリス軍はボナパルトの遠征に対応しナポリ、スペイン、ポルトガル、エジプトのそれぞれを守ろうとした。イギリス地中海艦隊指揮官のジャーヴィスはネルソンの艦隊をエジプトに送り出したが、6月中旬にアレクサンドリアに到着したネルソンはフランス軍を発見できなかった。彼らが補給のため引き返した直後の7月1日、エジプト沿岸に到着したボナパルトはマラボー近くに上陸した。ボナパルトはすぐに5000人の部隊を派遣しアレクサンドリアを2日に占領。残る部隊は2つに分け、主力の1万5000人は砂漠を通り抜けてエル=ラーマニヤへ、残りはドゼーが率いて川沿いに進んだ。両部隊は12日に合流。13日にはムーラッド=ベイが1万人のマムルークを率いてエル=ラーマニヤ北のシュブラ=ヒットに現れ、攻撃の準備を始めた。ボナパルトは方陣を形成してマムルークの突撃を撃退。さらに砲兵部隊はナイル川にいたエジプト艦隊を砲撃してこれも打ち破った。数百人を失ったムーラッド=ベイは南へ退却し、イブラヒム=ベイと合流しようとした。フランス軍の損害は70人だった。翌朝、ボナパルトはカイロへの行進を再開した。

・ピラミッドの戦い(1798年7月21日)

 イブラヒム=ベイとムーラッド=ベイはカイロ北西50キロメートルのところにあるエムバベ近くに陣を敷いた。ナイル東岸にはマムルーク騎兵6000人、歩兵1万4000人を配置し、西岸にはムーラッド=ベイ率いるマムルーク騎兵6000人、歩兵2万人、そしてトルコ軍の歩兵がいた(エジプト軍の兵力は計6万人の説もある)。さらにベドウィン騎兵1万4000人がフランス軍の背後に展開していたが、これはムーラッド=ベイらの指揮下にはなかった。ボナパルトは2万8000人(2万5000人、2万人の説もある)のフランス軍を率い、7月21日にエジプト軍と戦闘に入った。方陣を形成して進むフランス軍に対して繰り返されたマムルークの突撃は損害を出して失敗。イブラヒム=ベイはトルコからの増援を期待してシリアに退却し、ムーラッド=ベイの部隊はボナパルトの正面からの攻撃とドゼーによる側面攻撃を受けついに崩壊した。日没時には防御側は戦場から逃げ出していた。損害はフランス軍300人、エジプト軍はマムルーク2000人でエジプト人5000人だった(計5000人、計2000人の説もある)。ボナパルトは主力を率いて22日にカイロへ入城した。

・ナイルの海戦

 6月にはフランス軍を捉えそこねたネルソンだが、彼は再び8月1日にエジプトへやってきた。フランス艦隊のブリュイ提督はアブキール沖合いに部隊を配置させていたが、ネルソンはフランス艦隊とアブキール島の間に隙間を見つけるとそこに部隊を突入させた。午後遅くに始まった戦いは夕方いっぱい続き、フランス軍は敗北。旗艦ロリアンは午後10時に爆発沈没しブリュイも死んだ。わずか4隻の船だけがヴィルヌーヴ指揮下に脱出しマルタへ向かった。フランスは地中海の制海権を失い、遠征軍はエジプトで孤立した。

 ピラミッドの戦いで敗れたムーラッド=ベイの残存部隊はナイル川を遡上。ドゼーがこれの追撃に当たった。両者は10月7日にサディマンで戦闘し、ムーラッド=ベイは再び敗北した。この戦いにはフランス軍2900人、エジプト軍4000−5000人が参加し、損害はフランス軍140人、エジプト軍400人だった。

 ヴォーボワが守備にあたっていたマルタ島では、住民がフランスの支配に反対して抵抗。さらにイギリス艦隊は10月下旬にはこれを支援する態勢を整え、24日には5隻の船で港湾を押さえて封鎖を開始した。


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