1793年―南部フランス



・内憂

 南部フランスではモンターニュ派に対する反感が強まり、それが次第に反乱へとつながっていった。マルセイユでは4月29日に反モンターニュ派委員会が設立。リヨンでは5月29日にジロンド派らがジャコバン派のシャリエを逮捕。そして、7月12日にはトゥーロンが共和国に反旗を翻した。7月17日(18日の説もある)にはリヨンでシャリエが処刑され、リヨン、マルセイユ、トゥーロンが反共和国派の手に落ちた。

 これに対し共和国側は力で押さえる姿勢をはっきりと示した。アルプス方面軍の派遣議員であったデュボワ=クランセは軍を使った鎮圧を計画。指揮官のケレルマン将軍は国境線に1万2000人の兵を残し、マルセイユとトゥーロンに部隊を派遣したうえで8000人(1万3000人の説もある)の兵を率いて8月6日にリヨンへ向かった。リヨンを守る市民は2万人。ケレルマンは交渉での解決を図り戦闘開始を遅らせたが、政府の命令と5000人の増援を受けついに8月8日から包囲を開始した。また、カルトー将軍率いる共和国軍は7月25日に反乱軍からアヴィニヨンを奪い、8月25日にはマルセイユも落とした。

 孤立したリヨンを包囲する共和国軍の数は3万5000人にまで増加。ケレルマンは8月末にアルプス方面軍へ戻った。後任の指揮官は何度も替わっっており、事実上の指揮権は派遣議員のデュボワ=クランセにあった。10月8日(9日の説もある)、最後の突破の試みに失敗したリヨンは、9月25日に指揮官となったドップ将軍の手で10月10日(9日の説もある)に陥落した。

・トゥーロン攻囲

 一方、8月にマルセイユが共和国側に落ちたという情報を得たトゥーロンの反乱軍リーダーたちは8月23日にトゥーロン沖合いに現れたイギリス艦隊の援助を受け入れることにした。イギリス艦隊のフッド提督は27日にはグラヴィナ提督率いるスペイン艦隊の増援も受け、28日にトゥーロンに入った。フランス軍はまず9月6日にトゥーロン東部にラポワプ将軍率いる部隊が到着。7日にはマルセイユを落としたカルトーもトゥーロン北部にやって来た。フランス軍は18日からトゥーロン包囲を開始。30日夜にはトゥーロン北方のファロン山に向けたフランス軍の攻撃が行われたが、連合軍の反撃によって撃退された。攻撃が進展しないことを理由にカルトーは11月にイタリア方面軍に転任し、後任にはリヨンを落としたドップがやって来た。しかしドップの下で行われた11月15日の攻撃も失敗。彼はすぐ東部ピレネー軍に転出し、後任にデュゴミエ将軍がやって来た。

 連合軍の状況も良くなかった。10月22日にイギリスのオハラ将軍が指揮を取った時点でトゥーロン守備隊の兵力はイギリス、ナポリ軍合わせてわずか8000人しかいなかった。フッド提督は本国のピット政権に増援を求めたが、イギリス本国はフランドルの戦況に注意を取られており、増援を送ってくる様子はなかった。フランス軍側ではデュゴミエがサリセッティなどの支持を受けたボナパルトの作戦を採用。東部ピレネー軍から送られてきた増援で兵力が2万5000人(3万8000人の説もある)に達した後、12月17日にデュゴミエは2個師団(ラバールとヴィクトール)で街の周囲の丘を奪おうとした。3000人の損害を蒙りながらフランス軍はエギエット岬など重要な拠点を奪取。フッド提督のイギリス軍は18日から19日にかけてトゥーロンから撤退し、フランスはこの港町を取り戻した。


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