1793年―ライン戦線



・マインツ攻囲

 ライン河方面でも新年に入って状況はフランスの不利に動いていた。敵中に突出していたフランスのキュスティーヌ将軍は、自軍をこれ以上の危険に晒さないため3月19日にマインツの指揮を部下に任せて後退を決意。一方、ネールヴィンデンでの連合軍勝利の報を聞いたブラウンシュヴァイク公麾下のプロイセン軍5万5000人とドイツ諸邦軍2万5000人は、マインツ近辺のフランス軍(4万5000人)を叩くべく3月25日から前進を始めた。3月21日にはフランス軍左翼にあたるバハラッハでライン河を渡河。27日(翌日の説もある)にはホーエンローエのプロイセン軍がフランス軍を破り、キュスティーヌはライン左岸をヴォルムスへと退却していった。ブラウンシュヴァイク公はマインツを封鎖したうえでヴルムゼル将軍の部隊を南方へ送り出し、シュパイアー近くでラインを渡河させた。後方の連絡線が危機に晒されたキュスティーヌはさらに80キロ後退し、ラウター川に陣を敷いてアルザスへの進路を防衛するかたちとなった。

 しかし、ブラウンシュヴァイク公は2万3000人(2万2000人の説もある)のフランス軍が残るマインツの包囲に時間を取られることになった。カルクロイト麾下の連合軍3万6800人は4月6日から攻囲準備を始め、14日から完全に街を囲んだ(10日からとの説も)。フランス軍はしぶとく抵抗を続けたがやがて食糧が尽き、7月22日(23日の説も)に今後1年間は外国軍と戦闘しないという条件で降伏した。だが、フランドルも含めた一連の包囲作戦のため連合軍の動きは鈍り、フランス側は貴重な時間を稼いだ。

・アルザスへの退却

 この間、フランス側はライン軍指揮官ボーアルネ将軍とモーゼル軍指揮官ウーシャール将軍の下、9万人の兵をアルザスに集め、マインツ救出に向かおうとした。だが、彼らの出発は7月18日まで遅れ、結局マインツの降伏に間に合わなかった。ボーアルネ将軍はヴルムゼル将軍麾下の部隊の接近を受けて退却を決意。やがて彼はこの失敗の責任を問われて処刑された。フランス側はモーゼル軍4万人もザール河西岸まで後退。ライン軍はトリール近辺に6000人の兵を残し、ヴォージュ山脈に1万の兵を派出しブリースキャステル付近に1万5000人の前衛部隊を置いて南へ下がった。

 この時点でライン東岸に10万人の兵力を保有していたブラウンシュヴァイク公は、8月中旬からゆっくりとアルザスへ前進を開始。一方のライン軍は相次ぐ敗北と恐怖政治とで指揮権に混乱をきたしていたうえ、コーブルク公の侵攻を受けた北方軍へ増援を送り出したことにより兵力が減少していた。新たに指揮官となったカーラン将軍のライン軍2万5000人は連合軍によってブリースキャステルから追い出されたが、ヴォージュとライン河の間で反撃を繰り返して連合軍の前進を遅らせようとした。10月13日(14日の説も)、ヴルムゼル麾下のオーストリア軍4万3000人がヴァイセンブルクでフランス軍の弱体な戦線を蹂躙する一方で、ホーエンローエ将軍がビッチェへ移動した。防衛線を破られたカーランはストラスブールへ退却。ストラスブールは大混乱に陥ったが、ブラウンシュヴァイク公はフランス軍を追撃せず周辺の要塞攻撃に取り掛かった。4500人が守るヴォーバン要塞(ルイ要塞)は10月14日から11月14日までの包囲で陥落した。

・フランス軍反撃

 10月23日、パリからサン=ジュストとル=バが派遣議員としてライン軍にやって来た。フランス軍はモーゼル軍指揮官にオッシュ将軍を、ライン軍指揮官にピシュグリュ将軍を選び、11月後半から反撃を開始。戦線が膠着したアルデンヌ軍からの増援も送り込まれた。だが、当初は両軍の協力関係はうまくいかなかった。モーゼル軍はザールを渡り、ライン軍から遠ざかるように北方へ前進して連合軍右翼が位置するカイザースラウテルンに攻撃を仕掛けた。11月28−30日のカイザースラウテルンの戦いではオッシュの3万4000人とブラウンシュヴァイク公の2万6000人がぶつかり、連合軍がフランス側に3100人の損害を与えて勝利を得た。だが、連合軍はまたしても敗北したフランス軍を追撃しようとしなかった。

 一方、ライン軍は11月18日から自軍正面にいるヴルムゼルのオーストリア軍と交戦を繰り返し、これを少しずつ押し返した。プロイセン軍が退却したのに伴ってヴルムゼル将軍のオーストリア軍も後退。さらにカイザースラウテルンの攻撃に失敗したオッシュがライン軍と協力すべく部隊を東へ振り向け、オーストリア軍とプロイセン軍の境界を突く形となった。12月22日、オッシュはウェルト付近の連合軍を攻撃してこれを撃退。フランス軍は次の攻撃目標であるヴァイセンブルク付近に3万5000人の兵を集めることができた。25日にはオッシュがモーゼル軍とライン軍を合わせて指揮することになったが、この指揮権を巡る争いで彼はサン=ジュストの敵意を買った。

 26日、右翼をドゼー将軍の2個師団に、左翼をヴォージュから接近してきたオッシュの3個師団に支援されたライン軍の中央部隊2個師団が、ガイスベルク付近で4000人のオーストリア軍と遭遇。この部隊が完敗したのをきっかけに連合軍内でのブラウンシュヴァイク公とヴルムゼルの対立は決定的になり、ヴルムゼルはその日夕方にオーストリア軍を後退させた。オッシュは27日にヴァイセンブルクへ入城。28日にはピシュグリュと派遣議員たちが包囲されていたランダウを解放した。ヴルムゼルは30日にフィリップスブルクでライン河を渡って東岸に退却。同盟軍の退却に合わせ、プロイセン軍も同じ日にマインツでラインを渡河した。ライン左岸に残った連合軍はヴォーバン要塞の守備隊だけになった。


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