1793年―ピレネー戦線



・スペイン参戦

 対仏大同盟に参加したスペインは、ピレネーを越えフランス領土へと部隊を動かした。準備不足だったスペイン軍は装備不十分な3万5000人の兵しか送り込めなかったが、フランス側もフランドルとラインでの戦争に大半の兵力を割いていたため、スペイン軍の攻撃に対応してサルヴァン将軍麾下の8000人をピレネー西端に配置するのが精一杯だった。この地域ではスペイン軍のカロ将軍が5月中旬にサレでサルヴァンの部隊を破り、さらにラ=ロマーナが6月6日にシャトー=ピニョンを占領した。

 その後、この地域ではスペイン軍2万4000人がビダソア川のサン=マーシャル近辺といくつかの峠に防衛線を敷いた状態で動きが止まった。フランス軍がわではサルヴァンが7月4日に解任され、以後短期間で多くの指揮官が相次いで就任することになった。弱体なフランス軍はビダソア河からスペイン軍を追い払うために8月30日にビリアトゥに攻撃をしかけたが、あっさり敗北。10月にミュラーがフランス軍指揮官となった後は両軍とも陣地作りに精を出していた。

・ペルピニャン

 ピレネー東端ではスペインのリカルド将軍が4月17日から前進開始。20日にはセレでフランス軍を破った。国境沿いのフランス軍拠点をいくつか占領したところで、スペイン軍は増援(8000人)を待つために4月下旬に前進を止めた。フランス側はその間に戦力をペルピニャン周辺に集結させ、5月14日にはフルール将軍が指揮官として着任した。スペイン軍1万2000人は5月19日(20日の説もある)にセレを出発し、ペルピニャンの外縁へ迫った。ベレガルデ要塞はスペイン軍6000人によって5月23日に包囲され、6月24日に1500人の守備隊は降伏した。

 スペイン軍はペルピニャン周辺のフランス軍を7月13日から16日にかけて攻撃するが、これは跳ね返された。17日、リカルドは彼の部隊1万5000人を5つの縦隊に分け、街をあらゆる方向から攻撃しようとしたが、このうち4つの縦隊が道に迷い、側面にフランス軍(1万2000人)の反撃を受けて全面退却へ移った。このニールの戦いの損害はフランス軍1400人、スペイン軍1000人(160人の説もある)。フルール将軍は追撃をしなかったとの理由で解任され、後任のプジュ将軍は司令部をペルピニャンから引き揚げさせたが、スペイン軍の進軍も遅く、ピレネー東端の戦闘は手詰まりの様相を呈しつつあった。

・一進一退

 リカルドは局面打開のためペルピニャンをモン=ルイ経由で迂回しようとしたが、ペルピニャンの守備隊を指揮していたフランスのダウー将軍によって移動を食い止められた。9月17日のピラストルトの戦いではフランス軍(8000人)に前衛部隊(6000人)を叩かれて退却した。損害はフランス軍200人、スペイン軍1700人だった。

 9月19日にはダゴベルト将軍の率いるフランス軍部隊がペルピニャン付近に到着。彼はスペイン軍をピレネーの南へ追い払うべく、9月22日(21日の説もある)朝に1万8000人の兵(2万2000人の説も)を率いてトゥリュイラスにいるスペイン軍(1万7000人)を攻撃した。フランス軍は両翼から包囲するように行動したが、リカルドは左翼へのフランス軍の攻撃を予備部隊で食い止めたところで、最後には中央に兵力を再集結させてトゥリュイラス正面のフランス軍部隊に兵力を振り向けた。その日の午後にはフランス軍は退却に追い込まれた。スペイン軍の損害は1500人(2000人の説もある)、フランス軍はその4倍の損害(4500人の説もある)を蒙った。

 さらに攻勢を継続しようとしたダゴベルトだったが、派遣議員に攻撃中止を命じられて指揮官の地位を辞した。その間、スペイン軍は戦線を整理するためブーリュへ後退した。ダゴベルトの後を継いで新たな指揮官となったダウー将軍は、増援を受けて攻撃を再開。だが、フランス軍1万6000人、スペイン軍1万5000人が参加した10月3日のブーリュの戦いでは2700人の損害を出して敗北し、10月中旬に行った夜襲計画も失敗に終わった。10月11日にはダウーの次の指揮官であるテュロー将軍が着任。10月下旬にローザス港とセレのスペイン軍左翼を攻撃したがいずれも失敗した。11月26日にはスペイン軍がセレ北方のサン=フェレオルの拠点を奪った。

 東部ピレネー軍の指揮権はさらにドップ将軍に移り、彼は11月28日に着任した。フランス軍の苦戦は続き、12月7日にはヴィルロンギュでスペイン軍8000人の逆襲を受け650人の損害を出してペルピニャンへ後退した。さらに、ピレネー方面軍は兵1万5000人だけ手元に残し、残りをトゥーロン奪回のため拠出するよう求められた。12月19日(20日の説も)に5000人のフランス軍がコリウールで8000人のスペイン軍に敗北して4000人もの損害を出した後、ドップ将軍に残された兵8000人(1万人の説もある)にできるのはペルピニャンに立てこもることだけだった。


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