1792年―フランドル戦線



・最初の一手

 戦争開始に当たってフランス軍がハプスブルク領ネーデルランド(今のベルギー)方面に配置した部隊は、ロシャンボー率いる北方軍5万人(5万3000人、5万9000人の説もある)と、ラファイエット率いるモーゼル方面の中央軍5万人(3万人の説もある)。ただ、この数字は名目上のものであり、実際の兵員数はこれより少なかったようだ。

 4月20日に宣戦布告したフランスは、まずロシャンボーとラファイエットにハプスブルク領ネーデルランド侵略を命じる。だが、この時進撃した軍を構成していたのは熱狂的ではあるが訓練されていない義勇兵が中心であり、ロシャンボーは進軍に反対していた。指揮官の反対を押し切って進軍を図ったのはビロン将軍と、彼を支援していた外務大臣デュムリエだという。実際、彼らに対するオーストリア軍がまともに抵抗する姿勢を見せると、それだけでフランス軍は攻撃継続の意欲を失い、退却に追い込まれた。ロシャンボーの部隊のうちビロン将軍の軍勢7500人(1万人、1万5000人の説もある)はヴァレンシエンヌから前進したが、4月28−29日にモンス(ケヴレン)でオーストリアのボーリュー将軍5000人に敗北(この戦いでは勝利したが、30日になって壊走したとの説もある)。同じくリールから前進したディロン将軍の5000人(2300人の説もある)は29日、トゥールネーでハッポンコート将軍2600人に敗れ、ディロン将軍は混乱の中、味方の兵隊に殺された。この敗北によりメッツからナミュールへ前進していたラファイエットの軍1万人はその行軍を諦めてフランス領へ戻る。

 意に添わぬ進軍を行って敗北したロシャンボーは辞任し、ライン軍指揮官のリュックナーが後任となる。6月、リュックナーとラファイエットは再度ハプスブルク領ネーデルランドへの前進を始めるが、ラファイエットの前衛部隊(グーヴィオン将軍の4000人)が6月11日にモーブージュ近くのラ=グリシュエーレでオーストリアのクレアファイト将軍1万人の攻撃を受けて敗北。グーヴィオン将軍は戦死した。一方、リュックナー配下のヴァレンス将軍1万500人(2万人の説もある)は6月18日(19日の説もある)にクルトレーまで前進するが、ザクセン=テッシェン公麾下のオーストリア軍の反撃を受け6月30日には退却。フランス軍による2度目のネーデルランド進撃も失敗に終わる。

 この後、フランス軍は奇妙な計画を立案する。リュックナーの北方軍が南東へ動き、ラファイエットの中央軍が北西へ動いて両軍の位置を入れ替えようとする計画だ。パリの政局を不安視していたラファイエットが、いつでも軍隊を率いて介入できるようパリに近い場所へ移動したがったためだと言われている。この部隊の入れ替えが始まった直後にオーストリア軍がフランス北部に侵入。7月15日にオルシを、17日夜にバヴェを占領した(オーストリア軍の侵入は7月21日との説もある)。入れ替えが終わって北方軍の指揮官はラファイエットに、中央軍はリュックナーとなったが、8月10日事件の後でラファイエットは逃亡。北方軍の指揮権はデュムリエが引き継いだ。


・リール包囲戦

 プロイセンのブラウンシュヴァイク公麾下の連合軍がシャンパーニュ地方へ侵入してきたため、新たに指揮官となったデュムリエは北方軍の主力を率いてそちらの対応に向かう。その際、彼はフランドル国境方面に1万4000人の兵を残した。これに対しオーストリアのザクセン=テッシェン公はハプスブルク領ネーデルランドにいる2万人の兵をかきあつめ、9月2日から5日にかけてフランスの残存部隊に攻撃をしかけた。さらに25日からはリールの要塞を1万3800人の兵と52門の大砲で包囲しようと試みたが、兵力不足のため完全に取り囲むことはできなかった。当初1万人だったリールの守備隊は、ブラウンシュヴァイク公がシャンパーニュから後退した後にデュムリエが兵力を戻したため、10月上旬には2万5000人にまで増援された。弾薬の不足にも見舞われたザクセン=テッシェン公は10月6日に要塞への砲撃を中止、8日には包囲を諦めて退却した。リール防衛の成功はフランス国内の楽観主義拡大につながり、フランス軍はベルギー侵攻を計画する。

 デュムリエは国内の熱狂に乗って志願兵を集め、およそ10万人の兵で10月27日からベルギー侵略を始めた。ザクセン=テッシェン公は圧倒的に少ない軍勢を防御のため配置につけ、南東部のシャルルロワはラインからやってくるクレアファイト将軍に任せようとした。だが、クレアファイトの来援は間に合わず。デュムリエは側面を守るためトゥールネーに部隊を派出。さらにクレアファイトへの対応にも兵を割き、アトのオーストリア軍への対策も講じたうえで、残る4万人(4万3000人の説もある)を率いてモンスを守るザクセン=テッシェン公の1万4000人(1万3800人の説もある)に近づいた。


・ジュマップの戦い(1792年11月6日)

 ジュマップから南東へ伸びる丘に沿った防衛線を敷いたオーストリア軍に対し、デュムリエは11月6日午前8時から砲撃を開始。両側面からの攻撃をしかけた。フランス軍右翼の攻撃はオーストリアのボーリュー師団によって止められ、左翼での攻撃は泥に足を取られて止まった。午前11時、デュムリエは砲撃をやめジュマップに対する歩兵の正面突撃を命じる。オーストリア軍中央に対する突撃と、シャルトル公(後のフランス国王ルイ=フィリップ)の部隊によるジュマップへの攻撃は、大きな損害を出したもののオーストリア軍右翼の一部しか確保できなかった。シャルトル公は二度目の歩兵突撃を組織し、さらにジュマップ周辺の一部を奪った。オーストリア軍の戦線は動揺し、ザクセン=テッシェン公は午後になってモンスへの退却を行った。フランス軍の損害は1950人、オーストリア軍は1200人。フランス軍の追撃によるオーストリア軍の損害は5000人に達したとの説もある。デュムリエは8日にモンスとトゥールネーを占領(モンスは7日に占領したとの説もある)したが、部隊の疲労を考えてそこで前進を止めた。

 オーストリア軍はこの戦闘の敗北でハプスブルク領ネーデルランドからの撤収を決断した。デュムリエはこれに乗じて11月14日にはブリュッセル奪取。さらにベルギーのほぼ全域を支配した。また、11月6日から始まったヴァレンス将軍のアルデンヌ軍(3万9000人)によるナミュール包囲は12月2日にナミュールが降伏して成功裏に終わる。守備隊は2600人で、うち850人が死傷または行方不明で、残りはすべて捕虜となった。フランス軍はこの年のうちにアントワープまで進出した。


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