いや、なんてことないんスよ…
home blog * * *

 1  時代に取り残された歴史と最先端とを訪ねる

さて、今回は小ネタ2つです。無理繰り2つくっつけた訳ではなく、2日連続して出歩いたため一つにまとめることにします。写真も前回は640×480とかでだしてましたが、流石に大木杉。480×320にてgoでやんす。
ということで初日は羽田へと向かいました。羽田といっても空港ではなく、地域としての羽田です。今回はmixi上のコミュニティで行われたオフ会(?)で羽田の古くから住んでいらっしゃる方にお話を聞きながら、河口辺りの凄さ、キワさを味わおうというものです。


実は今回殆ど写真ありません。石材店の方にイロイロとお話伺いながらグルグルと回ってましたが、話自体はもの凄く興味深いんですが、写真としてはチト…


で、今回の目玉の一つはコイツです。つってもよくわかりませんね。画面中央に横たわるのが本来堤防だったところ。そしてこっち側が地面。ん?ということは向こう側は一体何なんでしょう?川のはずですが…

そして、そんなこんなで疑問を抱えつつも更に河口の方に向かいます。




で、ところどころこのように昔の堤防が残ってます。昭和3年の竣工だそうで、かれこれ80年近く前の堤防が残っているのは国内でも珍しいのではないかと。
そして写真はないんですが、この堤防は現在の堤防とは随分と違うところを通っており、かなり陸地側を通っています。そしてこの辺りの地代帳はその当時のまんま、ということはこの昔の堤防から河川側というのは人が住んでいることがあり得ないはずの土地とのこと、Webで調べても全然そんなこと出てきやしませんが、やはり詳しい人から話を聞けるこういう機会はもの凄くためになります。


そしてコイツが今回最大の目的、無縁供養堂。


この説明書きを読んで頂けるとわかると思いますが、建立のきっかけは関東大震災で無くなった方たちが多摩川を流れ、そしてこの辺りに数多く漂っていたとのことで、その方たちを供養する目的で建立されました。ボクの写真の撮り方が悪く、よくわからないかと思いますが、「供養堂」というくせに、建築資材は寄せ集めで作られ、屋根はトタン、塀はそこら辺で売ってるコンクリートブロック、卒塔婆のみがちゃんとしているというのが途轍もない凄味を感じさせます。しかも新しくしてもまだ寄せ集めを使うというところが、スゲェ…


少し引いてみるとこんな感じ(拡大写真有)。羽田猟師町の突端にここはあるのですが、その先には羽田空港、そして川を挟んで川崎の工業地帯と日本の近代化の過程を象徴するような風景が拡がります。
そしてこっち側には取り残されるようにこのお堂。日本の近代化の決して日の当たらない側面を見た思いがします。

こうして今回初めて羽田という町をじっくりと見てみたわけですが、地方から出てきた田舎者が持っている「羽田」のイメージはガラガラと音を立てて崩れました。
これまでは空港と「羽」という言葉のイメージからなんとなく小綺麗なイメージを持っていたんですが、実際は江戸時代の幕府御用達の猟師町という側面や空港ができる際の徴集、特に戦後の米軍による48時間以内の立ち退きを要求する滅茶苦茶な徴集の歴史など非常に濃いところだということがわかって俄然興味が湧いてきました。いや、ホント凄いわ。

今回はこの辺りの方に詳しくお話を伺う機会を得ることが出来、文献やウェブだけでは得難い貴重な情報をえることができました。やはり住んでいる人間の情報はもの凄くリアル。今後もこういう機会があれば積極的に参加していきたいと思います。いやホント実際見ないとわからんよ、こういうのは。

!!!  その他のページ

頁01 羽田の奇異なるもの

頁02 際の科学に触れる

 

 

 

次へ→

©2006 E.S.K. Corporation contactPrivacyPolicy home • back • nextpage top