団報「ビカボシロ」'96春

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無線従事者試験

シニアは、今年度の活動企画の一つとして、無線従事者試験を取り上げました。
山本啓介

 僕は皆より遅れて申し込みをしたために、11月に受けることになった。1度で受かりたかったので、問題集を買おうかと思ったが、結局本屋のどの売り場かわからなかったので買わなかった。(参考書のコーナーにはなかった)
そのため僕は柏木が送ってきてくれた参考書のコピーだけを頼りに受けることになった。試験の当日、受験標に写真をはることが分かったので、東京駅で何とか写真を撮りバスで会場へ。バスの中で授験標に名前を記入しようとしたら、筆箱を忘れたことに気付く。あるのは手帳用のシャーペン1本。何とか名前を記入。バスを降りてまわりの人について会場に入ったら、早速どの教室に入ったらいいのか分からなかった。なんとか大部屋にたどりついて、すぐに試験管にハサミとノリを借りにいった。貸してくれるか心配だったが、ほとんどの試験管がハサミとノリを常時けいたいしているらしく、すぐにかしてくれた。しかも、受験標もボールペンでかかせてくれた。写真をはってすぐに試験が始まった。問題をみたら法規と無線工学の二つの問題があった。法規ってなんだ(?)と思いつつも分かりそうなのから黒くぬりつぶしていく。分からないものは全て神様にきいて解いた。試験終了後、マークシートだから受かるだろうと思いつつ帰宅。二日後届いた通知は不合格だった。やはりマークシートといえどもしっかりと勉強していかないと受からないことが分かった。次こそは運が味方してくれることを願う。


100kmハイク

 東京連盟が主催するローバー恒例の100kmハイク。昨年は、12月2−3日に行われ、渋谷五団からは、8人が参加、宮田彌生さんの女子の部1位を始め、全員完歩というすばらしい成績をあげました。詳細の記録は、1月に発行されたローバー隊機関誌「ARA」に掲載されていますが、その中から一部をご紹介します。
 なお、100kmハイクというのは、文字通り100kmの距離を歩く競技で今回は、

[用賀自衛隊駐屯地−環八−甲州街道−立川−奥多摩街道−青梅−新青梅街道−
青梅街道−環八−用賀農大一高]
というコースで行われました。制限時間は24時間。地図で調べてみて下さい


100Kmハイクに参加して

宮田彌生

 まず初めになぜ私がこの100Km ハイクに再度挑戦しようと思ったか。それはずばり今の生活に何か感動が足りないような気がして、前回ゴールし、完歩証と足型のワッペンを受け取った時のあの感動をもう一度味わいたくなったからだ。前回出場したのは3年前。今年完歩すれば左右両方の足型ワッペンが揃う。是非、片足を両足に・・・という単純な目的を達成する為に参加した。
 さて、当日スタート会場へ行き受付をしたところで受け渡されたもの、ゼッケン、地図、もろもろの他に、何と足型ワッペンがあるではないか。ゴールで感動と共にもらうはずのワッペンを何もしないスタート地点で受け取ってしまった。ワッペン欲しさに出場した私としては、自分をゴールまで引っ張る一つの目的を早くも達成してしまい、少し嫌な予感。
 これは前回の話しになるが、前回70Km 地点のチェックポイントでおそばをサービスしてくれた。サービスしてくれたのは嬉しかったが、おそばが出来上がるまで15 分位掛かり、かなりの時間休憩をしてしまったので、それからは筋肉がひどく固まり、70Km 〜90Km は半ベソをかきながら歩いたという前回のツライ経験を踏まえ、今回は絶対に食べ物につられないぞっ!!と堅い意志を持ちながらスタートした。
 少なくとも前哨(50Km)まではチェックポイント以外の所で休憩をとらないと決めて歩いていたが、第1CPから第2CPが20Km もあり、精神的にも体力的にも一時危機を感じた。30Km 地点で前回の70Km 位の足の疲労を既に感じ、早くも30Km 付近で「こんなはずではない」と不安を感じた。その後40Km 地点第2CP以降元気を取り戻し、ひと安心。前哨の第3CPを通過すると何だか「これはいけるぞっ!!」と先が見えてきた。今が一番遠くに居るからあとは東京へ帰るだけだ。しかし足の裏にはマメが盛んに成長するばかり・・・。前回最も辛かった70Km 〜90Km は今回コマ地図が良い意味でいい加減であったせいか思ったより楽にクリアできた。
 最後のチェックポイントからゴールまではわずか5Km しかなかったはずだが、思ったより長く辛かった。時刻は既に9:00A.M. をまわり、道行く人々は、ゼッケンをし疲れた表情で辛そうに歩く私達を奇妙な目で見る。ゴールが近づき、一緒に歩いてくれた鈴木伸介君が「あれがもう農大ですヨ」と言ってくれ、いよいよゴールが目に入ったと思い舞い上がったが、あまかった。農大は広い。しかもゴールは大学ではなく、少し離れた高校だった。
 ゴール直前自分の心の中でまだかまだかと葛藤があったが、今度こそ本当のゴールを目にした。そしてゴールイン!ゴールでは渋谷5団のサポート隊を始め、皆が拍手で迎えてくれた。やっぱり言い表せない程の感動があった。そして感謝の気持ちで一杯になった。頑張ってよかった。出場してよかったと思えた。完歩証なんてただの小さな紙切れにすぎないのになんであんなに嬉しいんだろう。100Km 歩いて何でこんなに感動するのか、涙が出るのか解らない。でも、この頑張った後のこの喜びを忘れない。もう一つ、ゴール後のみんなのとびきりの笑顔も忘れない。この根性と感動と笑顔を忘れなければ、何だか何でも頑張れちゃうような気がした。こんなしんどい体験1人じゃしようとも思わないし、できないことだ。この大会に参加できた私の周りの全ての環境に感謝すると同時に、私と共に歩き、ゴールまで導いてくれた人達、夜を徹してサポートしてくれた人達、みんなみんなどうもありがとう!100Km ハイクには、体力、精神力の他に自分をプラスに導く要素が、沢山詰まっていたような気がする。


「復活」の陰で

ローバー隊長 山崎昭彦

 新井君がコートをかけ布団のようにして横たわっている姿を見たとき、(これはもうダメだろう)と内心思った。第5チェックを目前にした、新青梅街道沿いのファミリーレストランの前である。前日が曇天だったこともあって、比較的快適な気温ではあった。それでも明け方の冷え込みは、都内とは比較にならないくらい厳しいものだった。
 先にサポートに行った鈴木(樹)君があれこれと世話してくれていたが、疲れ切った表情と体のふるえは、見ていてつらくなる。暖房をいっぱいに効かせたパジェロの中にとりあえず収容し、本部と連絡を取った。励ましてやりたいけれど、話しかけて答えさせることは、よけい疲れを増すような気がした私は、ルームミラーで表情を読みとり、新井君の心情を探ることしかできなかった。
 ほどなく、前主将の鈴木(敦)君たちがやってきた。私は彼と、新井君をどのようにリタイヤさせて家に帰すかを相談しようと思っていた。しかし前主将の口からは、リタイヤどころか。体調の回復のための時間と、タイムアップの限界とをはかる言葉しか出てこなかった。昨年の経験が、新井君をリタイヤさせまいとしているのだと私は理解した。
 車内で暖まって20分も経たないうちに「そろそろ出かけないと、もう動けなくなるぞ」と、サポーターの面々が代わる代わる声をかけた。まだつらそうなようすではあったが、私には口を挟むことが出来なかった。用意された替えの下着類を身につけ、仲間のアドバイスを素直に聞きながら新井君は、サポーターにナイフを要求した。足の指に出来たまめの手当をするためである。見ると、右足の薬指に、指より大きなまめがあった。ナイフの先をライターで殺菌し、新井君は器用なしぐさで手当をすませた後、新しい靴下をはいてパジェロを出た。
 厳しい、しかし温かい励ましを受けて歩き始めた新井君の足どりは、ぎこちないながらもしっかりとしていた。(復活だ。大したものだな。仲間というのは本当にありがたい)と思った。こういうシーンを目のあたりにしてしまうから、スカウト活動はやめられないのだと、私はひとりごちていた。

 参加者の大半がゴールインした昼過ぎ、私は麹町にある佐野さんの事務所を訪ねた。不眠不休で支えて下さった本部の方々に、ひとことお礼を言いたかったからである。佐野さん、西垣さんが、笑顔で迎えて下さった。事務所のデスクの上には電話機とワープロ、壁には行程の大きな地図と、参加者の様子を記入する用紙が貼ってあった。
 ワープロの画面をのぞいて、私は驚いた。全ての参加者の各チェック通過時刻と、次のチェックの到着予想時刻が表示されていたのだ。平均速度から換算したものであった。ここまでしていただいて、ローバー諸君は実に幸せである。
 昨年に引き続き、全員完歩。しかも、宮田彌生君が女子の1位という快挙を成し遂げた今回の100kmハイク。それは、陰で黙々と働いて下さったたくさんの方々があってこそと、ローバー諸君が心に留めてくれていることが、私をほっとさせるのである。


サポート隊本部より

団委員 佐野公一

毎年、肌寒さを感じ始める頃、100キロハイクの季節となります。渋谷5団が独自のサポートを行うようになってから7〜8年になるでしょうか。当時はサポートに廻れる人も少なく自動車電話を搭載した車を移動本部として使用しながら伴走していましたが、ポケットベル、携帯電話といった移動通信手段が容易に使用出来るようになり、最近ではサポート隊各位との連絡基地という性格に変わりました。寒いなかを夜通し伴走することも無くなり随分と楽な仕事になりましたが、その反面、実際に歩いている参加者達を目の当たりにする事も無くなり、やや寂しい思いも致します。
当初は、公式参加が認められていなかった女子リーダーの伴走を行ったのがきっかけでしたが、以来毎年この時期になるとローバー隊から協力依頼が来るのを密かに楽しみにしております。今も私の目に焼き付いて離れない、ある光景があります。タイムアウト寸前、金網にへばり付く様にゴールに向けて歩き続けていた参加者達の姿です。初めてこのイベントを間近に御覧になる方々が例外なく心打たれるのがこの感動的なシーンであり、今年もまた同様の光景が見られた事と思います。長い間、このイベントに私を引き付けて止まないもの。その真のスター達は、実は彼等なのです。


特集2:海外へいこう

 ボーイスカウトは世界各地で活動が行われているので、毎年様々な海外派遣の案内が日本連盟から出されます。渋谷五団からも過去にたくさんの先輩が海外の行事に参加していますが、最近では、資格の面から応募すらできないことも多くなっています。
今年の行事予定は別表の通りですが、毎年同じくらいの案内が行われています。
 ローバーやリーダーを対象にしたものが多いものの、ボーイやシニアの参加できるものもありますので、機会があれば積極的に応募していくことが望ましいと思います。
 ただし、ボーイの参加は、必ず1級以上の資格と「世界友情章」を持っていることが、条件ですし、リーダーの場合は、指導者研修所(ウッドバッジ研修所)を終了している事が条件として指定されています。
 ボーイスカウト活動は世界のスカウトとの交流のチャンスをつくるよい機会だと思いますが、そこへ参加するためにも、最低限の条件となる資格を取っておくといいのではないでしょうか。
海外のキャンプに参加された先輩の感想も載せましたので夢を広げてください。


フィリピンジャンボリー

根井雅一

フィリピンジャンボリーの参加は私にとって2度目の海外渡航であった。
その当時、フィリピンはマルコス王朝の支配下にあり、百万人のスカウトがいた。百万人というのは、国家が組織したものであり、ボーイスカウトの本質とは違っていた。
キャンプ地へ行くと草刈りアルバイトの現地人がいた。8ペソ(当時320円)払うと、1日鎌を持ってきて朝から晩まで草刈りをしてくれる。コーラが1本1ペソ、ガソリンが1リットル1ペソなのだから、あまりに安い賃金である。同行した中学生ですら8ペソでは働くのがいやだと言っていた
ところが、バギオにあるマルコスの別荘はパリ王朝を思わせる豪華な門と建物があり、土地の広さは計り知り得ないほど広い。いくつかのファミリーに牛耳られた広大な土地、資本と町の中にある貧乏な人達のくらし。貧富の差が大変大きく、こんなバカげたことが一つの国の中でよく成り立つものだと思った。
案の定、約10年後、マルコス政権はクーデターにより倒れてしまった。
ジャンボリーに参加し、ゲームをしたり、いろいろなお祭りを見た事も楽しかった。けれども、それ以上にフィリピンという国に常に興味を持つ事となり、新聞やニュースを見ても、フィリピンの事は必ず注意が向けられた。
ジャンボリーもおもしろかったけれど、フィリピンという国は、もっとおもしろかった。
君達もどこかの国のジャンボリーに積極的に参加して欲しい。渋谷五団はこれまでにたくさんのスカウトを海外へ派遣している。君にも海外へ行くチャンスはある。そしてその時、本やテレビでは知る事の出来ないその国を知り、また、そのあと、興味深くその国を見る事は、必ず君の役に立つ。君が次に行くのはアフリカか南アメリカか。
(団報:30周年記念号から転載)


記 録

平成8年度登録状況:251名

      団委員  ビーバー   カブ  ボーイ  シニア ローバー    計
スカウト         26   40   42   16   19  143
リーダー   15    24   37   13   12    7  108
 計     15    50   77   55   28   26  251

団 友 会

 団友会は、渋谷五団(あるいは、その前の東京138団)のOBと、現役の指導者達の集まりです。9年前の発団30周年の時に、集まったのを最後に、しばらくご無沙汰をしてきましたが、OBとの絆を強め、仲間の輪を広げていこうということで、再発足する事になりました。 対象は:
1.渋谷五団でシニア以上の登録をしたことのあるスカウトのOB
2.渋谷五団の指導者の登録をしたことのあるOB
3.団委員長経験者
4.その他、参加を希望される方
で、年1000円の年会費を納入した正会員には団から定期的に連絡をし、活動へも参加していただこうと考えています。もちろん団友会独自の企画も増やしていく予定です。
 現在、整備中の名簿には、現役指導者を含め、240名近くの方の名前が載っていますが、4月20日に開いた「総会」には、そのうち50名を越す方が参加されました。
 初代ローバー隊長の星さんからの呼びかけで、亡くなられた古俣元団委員長、古俣哲司シニア副長、山崎元ローバー隊長、岩淵元ボーイ隊長を偲んで黙祷を行った後、久しぶりで会うなつかしい顔に。いつまでも話は尽きませんでした。
 会長に、根井雅一さんを選び、年一度の総会を決め、次回の再会を約して散会しました。


訃報:ビーバー隊小林副長


小林茂夫副長の思いで

カブ隊長 梶井克純

 平成8年5月6日午後1時32分、ビーバー隊で副長をされていた小林茂夫さんが逝去されました。その日夕方奥様から御連絡をいただいたときにはなにがなんだかまったく理解できないほど私自身が混乱しておりました。すぐに小林家にお伺いさせていただき茂夫さんのお顔を拝見させていただきました。1年半も膵臓ガンと戦われていたご様子は全く見られずおだやかなお顔でおやすみされているが如くでありました。茂夫さんが病気を完治してもう一度渋谷5団に元気にもどってっこられるのだということを信じておりました矢先の出来事でした。何もしてさしあげられないという無力感と親しい友人を失ったというむないしさで一杯です。
 4年前からビーバー隊副長として色々と5団のためにつくしてこられました。
あっという間に出来てしまう企画書、とても器用にお作りになる工作物などが思い出されます。平成7年の夏に、カブ隊の夏キャンプまで奉仕隊として参加いただき、その折小林さんにはウッドバッチのレプリカを作っていただきました。そのウッドバッチを優秀組のシンボルとさせていただきました。これからも小林さんの魂がこもったウッドバッチをたいせつにしてまいりたいと考えております。小林副長は大学生のときは立教大学体育会軟式庭球部で活躍され、健康そのもののようにお見受けしておりました。ご一緒にお酒もたくさんのみ5団のことについて熱く語り合った日々を思いだします。告別式の日にはそのような心をくんだローバー隊スカウトが渋谷5団のリーダーネッカチーフをわたしのところに持ってきて「棺の中に入れてほしい」と頼まれ小林さんの奥様にお伺いしたところ快諾していただき永遠のスカウトとして小林茂夫副長は旅立たれました。そのときに奥様は5団関係者の前で二人のご子息(瑛一君と堅二君)が立派なボーイスカウトになって欲しいとおっしゃってくださいました。我々が出来うることは瑛一君と堅二君が立派な指導者となって小林茂夫副長の意志を引き継ぐことのお手伝いが微力ながら出来ればと考えいております。小林茂夫副長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


編集後記

 96年春号の団報をお届けします。本来5月1日発行の予定でしたが、諸事情から発行日が遅れました。そこへ突然のお知らせが、小林副長の訃報でした。お子さんがビーバーへ入られて以来、ずーっとお手伝いいただき、スカウトばかりでなく、リーダも団委員も、大変お世話になりました。ご冥福をお祈りします。
今回の団報では、海外派遣を特集しました。ボーイスカウトであるが故のたくさんの海外派遣のチャンスがあります。今年の海外派遣は、ほとんど締め切っていますが、毎年、沢山の公募があり、ほとんど似たような状況ですので、参考にして、いつか、チャレンジしてみて欲しいと思います。

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