寺本熊市

陸軍中将

 

経歴

明治22年 1月 3日 和歌山県橋本市出身

明治43年 5月28日 陸軍士官学校卒業(22期)

明治43年12月  日 歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付

大正10年11月28日 陸軍大学校卒業(33期)

大正10年12月  日 歩兵第10連隊中隊長

大正11年12月  日 参謀本部付勤務

大正14年 5月  日 航空兵科に転じ航空兵大尉

大正14年 8月  日 航空兵少佐、飛行第2連隊付

大正15年 8月  日 陸軍航空本部員

昭和 3年12月  日 アメリカ大使館付武官補佐官

昭和 5年 3月  日 航空兵中佐

昭和 6年 2月  日 参謀本部付、同年5月帰国

昭和 6年 6月  日 航空本部員

昭和 8年 8月 1日 航空兵大佐、飛行第8連隊長

昭和 9年11月16日 臨時飛行第2大隊長、満州事変に出動

昭和10年12月 1日 飛行第16連隊長

昭和11年12月 1日 航空本部員

昭和12年 7月18日 留守航空兵団参謀長

昭和12年11月 1日 陸軍少将、浜松陸軍飛行学校幹事

昭和13年 6月10日 航空兵団参謀長、日中戦争に出征

昭和14年 8月 1日 浜松陸軍飛行学校長

昭和15年 8月 1日 陸軍中将、第2飛行集団長となり満州に赴任

昭和17年 4月15日 第2飛行集団が第2飛行師団に改編、師団長

昭和18年 5月 1日 第1航空軍司令官

昭和18年 7月20日 第4航空軍司令官、フィリピン防衛

昭和19年 8月30日 航空本部付となり帰国

昭和20年 4月 7日 陸軍航空総監代理兼陸軍航空本部長代理

昭和20年 4月18日 航空本部長代理

昭和20年 4月30日 航空本部長

昭和20年 8月15日 終戦の大詔拝聴直後に割腹自決

 

寺本熊市中将の言

よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種を自動車でバラ撒いただけで、ほっておいても穀物の出来る国だ。

その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄ってきた国だ。国力を侮ったらいかん。

しかし決まってしまった以上は天子様にお仕えするだけだ。

 

自決の様子

8月15日、終戦の大詔を聞いた後、副官に「書きものをするから呼ぶまで来るな」と命じ、室内に太平洋地図と大東

亜地図を二枚重ねて敷いた上に、軍装を正して宮城に向かって端座し、古式に則り軍刀で腹を十文字にかき切り、次い

で右頚動脈を切った後、拳銃を口にくわえて発射。確実を期した見事な最期であった。

 

多磨霊園

東京都府中市

寺本熊市 同アイ之墓

墓誌

陸軍中将 従三位功三級 勲一等旭日大綬章 寺本熊市

大東亜戦争終戦の日 昭和二十年八月十五日 天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す

昭和三十三年十月 靖國神社に合祀された

自決当時 陸軍航空本部長であった

 

平野地区

和歌山県橋本市

故陸軍中将 正四位勲一等功三級 航空本部長寺本熊市之碑

碑文

陸軍中将 正四位功三級 勲一等旭日大綬章 寺本熊市

明治二十二年一月三日 橋本市隅田町平野に寺本政吉の三男として生まれる 隅田第三小学校

五條高等小学校 五條中学校を経て 明治四十三年陸軍士官学校卒業 大正十年陸軍大学校卒

業 大正十四年五月航空兵科独立と同時に航空兵科将校となる

昭和三年米国大使館勤務 昭和六年帰国

大東亜戦争では第一、第四航空軍司令官 陸軍航空審査部本部長 陸軍航空本部長を拝命

昭和二十年八月十五日終戦の日 天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す

昭和三十三年十月七日靖国神社に合祀された

(中略)墓は平野の墓地と東京の多摩墓地にある

 

世紀の自決

更新日:2013/09/16