昭和 1年 月 日 陸軍士官学校騎兵科を首席で卒業
昭和 9年 月 日 陸騎兵第25連隊中隊長
昭和11年 月 日 陸軍大学校馬術教官
昭和12年 月 日 参謀本部副官
昭和15年 月 日 騎兵学校教官
昭和15年 8月 日 第38師団参謀
昭和18年 月 日 陸軍士官学校教官
昭和19年 月 日 大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官
昭和20年 8月15日 終戦
昭和20年 9月 4日 妻、子二人とともに拳銃自決
親泊朝省
陸軍大佐
略歴
明治36年 9月18日 沖縄県出身
昭和 9年 月 日 陸騎兵第25連隊中隊長
昭和11年 月 日 陸軍大学校馬術教官
昭和12年 月 日 参謀本部副官
昭和15年 月 日 騎兵学校教官
昭和15年 8月 日 第38師団参謀
昭和18年 月 日 陸軍士官学校教官
昭和19年 月 日 大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官
昭和20年 8月15日 終戦
昭和20年 9月 4日 妻、子二人とともに拳銃自決
比島決戦の歌
フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツとマッカーサーの名前を入れるように要望があった。
しかし作詞家が打ち合わせで断ると、同席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で
「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」
と代筆してこの曲が出来上がったという逸話が残る。
自決
日本が戦艦ミズーリ艦上で無条件降伏文書に調印をした翌日、妻と子二人とともに拳銃自決。
遺書
ガ島で死すべかりし命を今宵断ちます。皇国の前途をよろしく頼む
多磨霊園
東京都府中市
親泊家之墓
更新日:2007/12/16