宮 崎

 

宮崎海軍航空隊

昭和18年12月 1日 陸上攻撃機実用機教程練習航空隊として開隊

昭和19年 8月 1日 練習航空隊が松島空へ移転、航空作戦基地へ転換

昭和20年 8月15日 終戦

 

宮崎空港

宮崎県宮崎市

宮崎海軍航空隊 鎮魂碑

碑文

この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。

昭和二十年八月十五日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同

作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の戦史に残る

偉跡の地である。

現在平和と繁栄の生活を享受しております。然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの

国民の犠牲と数百万の戦死戦没戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れ

てはならない。なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて、“祖国のために”を合言葉に

南海の空で散った陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承

したい。

赤江飛行場は昭和十八年十二月一日付で海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和十九年七月赤

江基地は練習基地から第一線の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊

したのは、昭和十九年十月十日である。

 

昭和十九年十月十二日台湾沖航空戦に突入した。当日赤江基地に展開していた陸海軍機の攻撃

隊及び雷撃隊の出撃となった。赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍

機は「一式陸上攻撃機」をはじめ三四四機、陸軍機は「飛燕」延二〇〇機、総機数五四四機である。

この作戦による戦死者数は海軍六三五名、陸軍八〇名である。

戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。

徒死を待つより大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを託し国に報ゆる信念に燃える陸海の

若鷲は愛機とともに敵空母に体当り攻撃を敢行した。それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する

帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。

 

昭和十九年十月二十五日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。海軍における神風特別攻

撃隊として出撃した特攻隊員は布告第五十九号を始め布告第二五九号を最後に二、五〇七名にな

る。陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は一、三九二名になる。特別攻撃隊員のほと

んどがこの赤江基地を飛び立ち直接攻撃に参加したもの、或は中継基地として比島、台湾、沖縄で

特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する両親や懐かしい故郷そして祖国を救い得る

ならばの一念に燃え未曾有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷲の最後の地である。

 

昭和二十年三月十八日宮崎初空襲である。米艦載機による銃撃は午前五時四十八分夜戦一機の

攻撃に始まり午前八時までグラマン戦闘機延一五〇機、午前十時まで延五四〇機、正午より午後四

時四十五分まで延二〇〇機、これに反撃したのが、第七二一航空隊の戦闘三〇六、三〇七両飛行

隊「零戦」九〇機である。

この初空襲以後の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡一二三名、負傷者一七六名である。

 

今大東亜戦において有能な人材を失った責任は大きい。若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩

同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と

青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎

県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における

民間戦災犠牲者の鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空空の殉

職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に

碑を建立し碑名を「鎮魂之碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。

.                      鎮魂碑合祀者名簿及びご芳名者名簿本堂に収納

.                      一、陸海軍宮崎基地在籍部隊合祀名簿

.                      一、海軍神風特別攻撃隊戦死者名簿

.                      一、陸軍特別攻撃隊戦死者名簿

.                      一、宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死戦没者名簿

.                      一、宮崎空襲時における戦災死亡者名簿

.                      一、宮崎特攻基地慰霊碑建立基金芳名者名簿

昭和五十八年三月吉日  宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会一同

 

永峰 肇軍神奉賛碑

遺詠

南溟にたとへこの身が果つるとも いくとせ後の春を想へば

碑文

神風特別攻撃隊のさきがけ敷島隊は世界最初の公式人間爆弾となり 昭和十九年十月二十五日

国家悠久の大義に殉じ世界恒久平和の礎となった

敷島隊四番機の永峰 肇飛行兵長は大正十四年四月一日宮崎県住吉村(現在宮崎市)永峰万作

ステの長男に生れ十九歳で特攻戦死され海軍飛行兵曹長に特進 功五級金鵄勲章・勲七等青色

桐葉章を受け感謝状及び短刀一振を授かり軍神の称号を贈られた

平成八年四月吉日 永峰軍神奉賛会

 

遺詠碑

遺詠

立ゆかで雲染む屍大君の 醜の御楯と我勇み往く

甲種飛行予科練第四期生 海軍少尉 岡田 保治

 

若鷲はみなみの空に飛び翔ちて 帰る寝ぐらは靖国の宮

藤川特別攻撃隊 加井二飛曹

 

遺詠・回想・航空安全碑

遺詠

身はたとへ嵐の叫ぶ南海に雲染む屍となりぬとも 咲く勲の香り止めて

昭和二十年五月十一日 神風特攻菊水銀河隊 伊藤  勲(二十才)

 

みんなみの雲染む果てに散らんとも くにの野花とわれは咲きたし

海軍予科練出身 高崎 文雄(十九才)

 

特攻兵の望みの花の枝持ちて 駆けつけ来れば機は飛び立ちぬ

宮崎航空隊勤務 安田 いく子

 

とつくにの空を旅するもろ人を飛雲にのりてまもる観音

海軍予科練出身 大沼 嘉朗

 

 

遺書碑

遺書

昭和二十年五月十日 午後三時四十八分

海軍一等飛行兵曹 伊東  勲

何も書くこ事はありません。只御両親様及久美子の健康を祈るのみ。

勲は決して人におくれはとりません。潔よく散るのみです。

目標は正規空母です。

十日位したら徳島海軍航空隊十四分隊五班上野 功君に便りして下さい。

写真は受け取ったと泣かずにほめて下さい。

幸多かれと祈るなり。親戚の皆様へ宜敷く。

宮崎航空基地にて  六時五十五分終了

 

御両親様 孝養を頼むぞ久美子 安よ頑張れ

神風特攻第六菊水隊  享年二十才

 

甲種飛行予科練習生、陸軍飛行第七戦隊 戦没者墓碑銘

 

神風特別攻撃隊宮崎基地発進銀河隊、宮崎県出身陸海軍特攻隊 戦没者墓碑銘

 

宮崎海軍航空隊之跡

 

隊門

 

本郷北方地区

宮崎県宮崎市

掩体壕

 

掩体壕

 

掩体壕

 

掩体壕

 

赤江地区

宮崎県宮崎市

 

掩体壕

 

掩体壕

 

掩体壕

 

掩体壕

 

コンクリート壕

 

コンクリート壕 内部

 

神風特攻隊

更新日:2011/09/18