友永丈市
海軍中佐
略歴
明治44年 1月 9日
昭和 6年11月17日 海軍兵学校卒業(第59期)
昭和 8年 4月 日 重巡「愛宕」乗組
昭和 9年 7月 日 飛行学生第25期卒業・大村航空隊付
昭和 9年11月 日 空母「赤城」乗組
昭和10年10月 日 霞ヶ浦航空隊付
昭和12年12月 日 空母「加賀」乗組
昭和12年12月 日 日華事変に参加
昭和13年 6月 日 館山航空隊分隊長
昭和14年10月 日 宇佐航空隊分隊長
昭和16年 9月 日 霞ヶ浦航空隊分隊長
昭和17年 4月 日 空母「飛龍」飛行隊長
昭和17年 6月 日 ミッドウェー海戦に参加、ミッドウェー島攻撃隊総指揮官
昭和17年 6月 5日 米正規空母ヨークタウンに体当たりして戦死(享年31歳)
ミッドウェー海戦
第一機動部隊の主力空母四隻は、赤城・加賀が第一航空戦隊・南雲忠一中将の直率、飛龍・蒼龍が第二
航空戦隊・山口多聞少将の指揮下に入った。
航空母艦飛龍
6月5日 現地時間、4日 04:30、友永丈市海軍大尉を総指揮官とする第一次攻撃隊108機が発艦。2
時間後にミッドウェー島上空に到着。敵高角砲を沈黙させ更に飛行艇基地・格納庫・陸上施設を攻撃した。
しかし敵機は全機飛び立った後で、滑走路の破壊も不十分であったため、07:00 友永大尉は「第二次攻
撃ノ要アリト認ム」と戦況報告を打電している。
赤城の南雲司令部は電信を受け、第二次攻撃隊の魚雷兵装を陸用爆弾に取り替えるよう下令したが、利根
四号索敵機からの「敵ラシキモノ見ユ」、「空母ラシキモノヲ伴フ」との報告で、魚雷兵装へ再転換となり艦内は
大混乱をきたす。
間もなく飛龍を除く空母三隻に敵急降下爆撃機の爆弾が命中、大火災を起こして航行不能に陥り飛龍一隻
が爆撃を免れ山口少将の指揮の下、10:58 飛龍から第一次攻撃隊が発進。
友永機はミッドウェー島上空での空戦中に右翼燃料タンクに被弾、右燃料タンクの応急修理が済んでいなか
ったが、友永大尉は「敵は近い。左タンクだけで十分だ」と修理を断ったと云う。
13:31 友永大尉を指揮官とする第二次攻撃隊が発進。使用可能機数は艦上攻撃機10機・艦上戦闘機6
機のみであった。
第二次攻撃隊は第一次攻撃隊による被弾で応急修理中のヨークタウンを発見、友永機が熾烈な対空砲火
の中で魚雷発射の体勢に入った時、エンジン付近から火を吹き黒煙を引いてヨークタウンの左舷艦橋方向
へ体当りしていった。
ミッドウェー海戦では日本の機動部隊が米空母ヨークタウンを大破させた。これは友永丈市飛行隊長ら搭乗
員の技量の高さを証明するものである。
米航空母艦ヨークタウン 炎上するヨークタウン
野口中町
大分県別府市
海軍中佐友永丈市君誕生地
上野口墓地
大分県別府市
海軍中佐友永丈市之墓
更新日:2008/12/20