村田重治

海軍大佐

略歴

明治42年 4月 9日 長崎県南高来郡島原村出身

昭和 5年11月  日 海軍兵学校 卒業(58期)

昭和 8年11月  日 霞ヶ浦海軍航空隊 飛行学生

昭和 9年 7月  日 館山海軍航空隊付

昭和10年10月  日 航空母艦「加賀」乗組

昭和11年10月  日 霞ヶ浦航空隊教官

昭和12年 7月  日 第13航空隊分隊長、支那事変に参加

昭和12月12日  日 パナイ号事件発生

昭和13年12月  日 航空母艦「赤城」分隊長

昭和14年10月  日 横須賀海軍航空隊付

昭和14年11月  日 航空母艦「赤城」飛行隊長

昭和14年12月 8日 真珠湾攻撃に参加

昭和17年 1月20日 ラバウル攻略に参加

昭和17年 2月29日 ポート・ダーウィン空襲に参加

昭和17年 4月 5日 セイロン沖海戦に参加

昭和17年 6月 5日 ミッドウェー海戦に参加

昭和17年 7月  日 航空母艦「翔鶴」飛行隊長

昭和17年 8月24日 第二次ソロモン海戦に参加

昭和17年10月26日 南太平洋海戦に参加

.                  第一次攻撃隊を指揮して米空母「ホーネット」を肉薄攻撃後、

.                  刺し違え自爆・戦死。享年34才

 

あだ名

あだ名は「ブーツ(ブツ)」由来には三説あり、

1.いつもブーツ(搭乗員用の長靴)を履いているから。

2. 男性の一物が異常に大きいから。

3.仏のような人柄だったから。

 

パナイ号事件

第二次上海事変時、僚機と中国船と思われる船を撃沈したが後に米艦パナイ号である事判明した。

 

第二次上海事変勃発から約4ヶ月後の昭和12年12月12日、日本軍の南京攻撃(南京陥落)の前日、

陸軍から「脱出中の中国国民党軍に対する攻撃要望」を受けた第二連合航空隊・第一二航空隊は、常

州飛行場より攻撃隊を発進させた。

攻撃隊は南京上流45km揚子江上で船舶4隻を発見、村田隊がパナイ号に直撃弾を与え、続いて他

の3隊が別の2隻に急降下爆撃・機銃掃射を加えた。結果、パナイ号を含む2隻を撃沈、

2隻に損傷を与えた。

脱出中の中国国民党軍と誤認して攻撃したのは、米アジア艦隊・揚子江警備船パナイ号と、同船に先導

案内された米商船メイピン(美平)号・メイシア(美峡)号・メイアン(美安)号の4隻だった。

事態を憂慮した当局は過失に基づく陳謝を各方面で行い、事件から約2週間で概ねの決着を見た。また

日本政府は賠償金として321万4,000ドルを支払った(実損害・死傷事件に対する損害額が算出され、

懲罰的な金額は含まず)。

 

雷撃の神様

真珠湾攻撃計画時、課題だった浅沈度魚雷の開発に関与、瀬戸内海での魚雷発射実験では目標である

深度12メートル以内を達成。

真珠湾攻撃開始時には、村田大佐の雷撃隊は米戦艦「ウエスト・ヴァージニア」、「オクラホマ」等を攻撃。

 

昭和17年10月26日

南太平洋海戦で第一次攻撃隊を指揮して米航空母艦「ホーネット」を肉薄雷撃後、自爆。その様子は僚機

によって報告され、死後二階級特進して大佐に進級。

昭和18年 1月、古賀峯一連合艦隊司令長官名で、殊勲が全軍に布告された。

更に3月には、南雲忠一中将(佐世保鎮守府司令長官)が生家に弔問している。

 

  

米航空母艦ホーネット

 

晴雲寺

長崎県島原市

海軍大尉村田重治之墓

 

特攻の魁

更新日:2009/08/02