陸軍少年飛行兵

 

禅昌寺

東京都武蔵村山市

少飛の塔

碑文

陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校本校にはじまる。

陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに

大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため、各地に教育隊が設立され、終戦時の第二

十期まで四万六千の若鷲が巣立った。

陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として、支那事変、ノモンハン事件を経て、大東亜戦争に参加、日本

の危急存亡に際して北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃

隊員をはじめ、四百五十余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。

いまだ十代の紅顔の少年達であった。

昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し、以後毎年現地において生存者相集い

慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとに、この地に

供養塔を建立することとなった。

遷座にあたり、英霊の偉勲を偲び、久遠の平和を祈るものである。

 

玉川上水

東京都武蔵村山市

陸軍少年飛行兵 揺籃之地

建立の趣旨

ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である

陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる 次いで陸軍航空の拡充養成

により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され 第一期生が入校した

終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千 支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に

活躍したが,祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える

昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが このたび 永代の供養を

念願して禅昌寺に遷座することとなった

若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものである

平成二年十月十日  陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

 

説明板

武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地指定 第二十一号 平成十九年七月十日指定

この「揺籃之地」石碑の建っている場所には かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました

東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者と

されていました 授業の科目は,午前中が国語・数学や兵器学など,午後は軍事教練等の術科と体操でした また

学校北側の練兵場では,グライダーによる滑空訓練も行われていました これら一年間の課程が終了すると 適性

検査の後 操縦・整備・通信の各分野に分れた二年間の上級学校に進み その後全国の飛行隊に配属となりました

当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と

「揺籃之地」石碑が建てられています

武蔵村山市教育委員会では 市内に大きな軍事施設が存在したことと 少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが

戦死したことを後世に伝え世界恒久平和を祈るために その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を「東京

陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました

平成二十一年三月  武蔵村山市教育委員会

 

大津市民文化会館

滋賀県大津市

 

大津陸軍少年飛行兵学校跡/若鷲の碑

若鷲の記

大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年十月、

航空戦力増強の要請に応じ東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、昭和十八年四月、大津

陸軍少年飛行兵学校に独立した。

当時十三〜六歳の少年達は、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、

「至誠・純真・元気・周到」

の校風のもと、天然の利、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長華山麓に、幹部要員として徹底した一ヵ年の基礎訓練

に励んだ。その数、第十三期生から第二十期生に亘るまで八千有余人、ついで、操縦・通信・整備の各上級

学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南溟の果てに本土防衛のさきがけとなって愛機と生死

を共にした。

昭和二十年八月、戦いは終わり、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に帰郷し、本校も

またその歴史を閉じた。

往時芒々、戦後三十年、教えし者、教えられし者相集い、かつて青春のすべてを捧げうった想い出深きこの

地に、永遠の平和を願って、茲に若鷲の碑を建立する。

 

法光寺

東京都荒川区

捧 為陸軍少年飛行兵慰霊

碑文

ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者四萬五千にして

空陸海に散華せし者数うるに限り無し

依って生存者遺族有志相い集いて慰霊の誠を捧げんとして是を建立す

行き交う人々心あらば一遍の回向を賜らんことを

 

千葉縣護國神社

千葉県千葉市中央区

千葉県出身 陸軍少年飛行兵慰霊之碑

碑文

戦火絶えて二十七年。いま、私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に

散っていった君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は、

君達の尊い死によって築かれたものなのだ。

若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れないために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いな

がら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。

亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に守り給え。

 

埼玉縣護國神社

埼玉県大宮市

埼玉県少飛会 献木

 

北山霊園

栃木県宇都宮市

陸軍少年飛行兵栃木縣出身戦没者 慰霊之碑

 

信濃招魂社

長野県長野市

長野県少飛会 招魂

 

新潟縣護國神社

新潟県新潟市

陸軍少年飛行兵 新潟県出身戦没者慰霊の碑

 

富山縣護國神社

富山県富山市

富山県陸軍少年飛行兵 つばさの塔

 

石川護國神社

石川県金沢市

陸軍少年飛行兵 慰霊顕彰碑

 

愛知縣護國神社

愛知県名古屋市中区

愛知県少飛会 陸軍少年飛行兵慰霊顕彰之碑

 

三重縣護國神社

三重県津市

陸軍少年飛行兵戦没者為慰霊 奉燈

碑文

散華された陸軍少年飛行兵の英霊に鎮魂の誠を捧げます

大東亜戦争に於いて三重県出身陸軍少年飛行兵七十八柱が散華されました

尊い命で築かれた平和日本の姿を後世に伝えるため 生存者一同先輩同期の慰霊顕彰の証として

ここに燈篭を奉納するものであります

平成十一年十月三十一日  三重翔飛会建立

 

和歌山縣護國神社

和歌山県和歌山市

碑文

昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵の制度が誕生した

至誠 純真 元気 周到の校訓を旨に日夜訓練に励み 操縦 通信 整備の分科に巣立った

若人たちは 祖国の危急を救うため戦乱に身を投じ その多くは蒼天の涯に消えていった

しかし昭和二十年夏敗戦 辛苦に耐えていま日本は画期的な飛躍を続けている

けれど私たちはなお あの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできない

なかでも ふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶う

ここにその栄光を永久に称え こころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる

 

兵庫縣神戸護國神社

兵庫県県神戸市灘区

陸軍少年飛行兵顕彰碑

碑文

日本陸軍航空の華として、昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は、昭和二十年八月の終戦までの間、

第一期生から第二十期生まで五万八千八百余名を数える。

その歴史的生命は僅か十二年に過ぎなかったが此の間、日支事変をはじめ、ノモンハン事件、大東亜戦争

と常に陸軍航空部隊の中核として敢然と大空の決戦場に出陣し、本県からも多くの少年達が参加した。

若冠十五歳前後で大空を志し、猛訓練に耐え、青春を惜しみなく国の危急存亡に捧げ、その多くは祖国の

繁栄と同胞の幸せを祈りながら若き命を雲染む屍と散っていった。

戦後三十五年、日本の空に平和が訪れ、かつてこれら戦友と苦楽を倶にした標語県下在住の生存者ならび

に有志相集い、今は亡き戦友の御霊と功績を偲び、若人が国の為につくした栄誉と、至純にして崇高な精神

を讃え、その歴史的事実を後世に伝えるとともに、戦争を実際に体験した我々が世界の平和と人類の幸福を

祈念してこの碑を建立する。

 

献木 同期の桜

 

比治山陸軍墓地

広島県広島市中区

広島少飛会 大空に散華せし亡き友に捧ぐ

 

備後護國神社

広島県福山市

陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑

 

鳥取縣護國神社

鳥取県鳥取市

鳥取少飛会 少年飛行兵戦没者慰霊碑

 

松江護國神社

島根県松江市

島根少飛会 翔飛の樹

 

山口縣護國神社

山口県山口市

少飛之碑

 

徳島縣護國神社

徳島県徳島市

陸軍少年飛行兵 若鷲之碑

 

愛媛縣護國神社

愛媛県松山市

愛媛少飛会 亡き友の御霊に捧ぐ

 

陸軍特攻隊

更新日:2012/01/15