陸軍飛行学校

 

航空自衛隊 熊谷基地

埼玉県熊谷市

荒鷲之碑

碑文

昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は

遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊

を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。

綾威原の碑

司令部跡

格納庫

給水塔

 

鉾田

茨城県鹿島郡大洋村

鉾田陸軍飛行学校顕彰碑

碑文

鉾田陸軍飛行学校は、昭和十五年十二月旧上島白鳥両村約八百町歩、旧新宮村四百町歩の地域に

開設され、軽爆、襲撃飛行隊幹部の教育訓練並びに研究が行われていたところである。

大東亜戦争いよいよ熾烈となるや、本土防衛のため、昭和十九年六月鉾田教導飛行師団となり、翌二

十年七月主力を以って純作戦部隊として第二十六飛行団に改編された。この間、特攻隊が生まれ訓練

の基地となり、我国特攻隊として最初に編成された万朶隊を始め、鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊

四隊、神鷹隊十二隊、外四隊計二十四隊が編成された。うち十一隊計六十七名が、比島、沖縄及び

終戦直前の鹿島灘東方洋上作戦に参加し、特攻散華されたのであった。なお、学校訓練並びに新編

成部隊の昼夜を分かたぬ猛訓練のため、幾多の将兵が殉職されたところである。

戦後すでに二十九年、当飛行場跡は徒に荒廃を極め、往時を回顧すべき何物もないのは洵に痛恨

の至りである。

茲に於て、地元有志並びに戦友相諮り殉国の英霊を顕彰し、その鎮魂と世界平和の祈りを込めて、

ここに鉾田陸軍飛行学校顕彰碑を建立した次第である。

 

水戸つばさの塔

茨城県ひたちなか市

水戸つばさの塔

碑文

昭和十三年、ここ前渡の地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し、水戸陸軍飛行学校が開校、

通信、戦技、武装、高射、科学戦、自動車、特操、左尉官、少年飛行兵等の教育と研究を実施し、東部に

陸軍飛行審査部水戸試験場が設置された。

昭和十五年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。戦局の要請

により昭和十八年八月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移住した。

昭和十九年六月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編、精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土

防空の作戦任務を附与された。

この地にあってその職に殉ずる者および、昭和二十年二月十六、十七日の艦載戦闘機群邀激等により

身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於ても電鍵を片手に華と散った者数知れず、更に

昭和十九年十一月以降、特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第二十四振武隊、第五十三四振武隊、平井隊、

誠三十五飛行隊、第六十八四振武隊の勇士七十余人は相次いで進発、レイテ沖に、台湾、沖縄海域に

敵艦船を求めて突入し國難に殉じた。

昭和二十年四月、師団兵力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。

ここら終戦三十周年を期し、関係者ならびに有志相計り、この戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を

顕彰し、祖国永遠の平和を祈念してこの塔を建立する。

  

     航空神社の手水鉢                     近海から引き揚げられた戦闘機部品

 

陸軍特攻隊

更新日:2002/10/13