陸軍中津飛行場

 

略史

昭和15年 2月  日 熊谷陸軍飛行学校 中津分教場として開設

昭和16年 6月  日 熊谷陸軍飛行場相模分教所開校。

昭和16年12月  日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年  月  日 戦闘機が配備され出撃基地化

昭和19年 7月20日 飛行学校閉鎖、実用機、戦闘機の基地となる

昭和19年  月  日 特別攻撃隊の訓練基地となり、南九州の特攻基地へ出撃

昭和19年12月 5日 第18・19振武隊、相模で編成完結

昭和20年 4月29日 第18振武隊 8機、知覧より沖縄に特攻出撃

昭和20年 4月29日 第19振武隊 5機、知覧より沖縄に特攻出撃

昭和20年 5月 4日 第19振武隊 5機、知覧より沖縄に特攻出撃

昭和20年 8月13日 第398神鷲隊、相模より下田沖に特攻出撃

 

陸軍中津飛行場

 

第18、19振武隊

第18振武隊と19振武隊は、共に昭和19年12月 1日、第10飛行師団隷下の各戦隊から抽出した

技倆優秀者を主体に編成が下命された。

第19振武隊には、244戦隊から四宮徹中尉、井上忠彦少尉、角谷隆正少尉、伊藤賀夫少尉、小林龍

曹長、阿部正伍長、70戦隊からは塩沢優少尉(後に殉職)、平野俊雪少尉、林格少尉、島袋秀敏曹長

松原武曹長、向島幸一軍曹が選ばれ、12月 5日、相模飛行場で編成を完結した。

両隊は本来、19年12月にも敵機動部隊が関東に来襲するとの情報に基づき、編成が急がれたのだが、

結果としては誤報であり、結局両隊の出番は約5ヶ月後の沖縄戦まで持ち越されることになった。

20年4月29日23時12分、小西隊長以下第18振武隊の8機が、次いで同30分、四宮隊長以下第19

振武隊5機が月明の知覧飛行場を出撃。更に5月4日早朝、林格少尉以下の6機が知覧を出撃した。

両隊の特攻戦死者は計16名、殉職者1名、復員者7名であった。

 

 

内陸工業団地

神奈川県愛甲郡愛川町

通信室跡

 

通信室跡

 

滑走路跡の生活道路

 

隊門

 

中津第二公園

神奈川県愛甲郡愛川町

格納庫の跡?

 

開墾記念碑

碑文

中津村は古くから専ら養蚕を営み此の耕地の大半は桑林帯であったが支那事変が拡大し昭和十五年二月

突如陸軍省は飛行場設置の為、約三百町歩を買収した。

農民は青天の霹靂に茫然自失し職を失い、業を転ずるにいたるも国家の危急に際し犠牲を忍び涙を呑んで

耕地を提供したのである。

昭和二十年八月終戦と同時に施設は解体せられ全用地の管理を中津村農業会に委託せられたが前年来

未曾有の飢饉が連続し極度の食糧飢饉となり農民すら食を草根に求むる惨状を呈した。

農業会は国内混乱のさ中に在て上司の許可を待たず技術官を聘して測量を進め区画を整理し無耕地農民

を優先とし労力を参酌し未復員者を考慮して配分し開墾せしめたのである。

農家は直ちに実施を挙って鍬を揮い田匙を踏み堅土を越し食を割いて種子とし乏しき肥料を施して作付け

したのであるが其悲想なる努力は筆舌に絶し辛くも若干の収穫を得て命の糧としたのである。

かくして此耕地は農民の手に復帰し本村の命脈とし幾多生存の危惧を脱し茲に十年の星霜を閲し今や整然

たる区画と豊穣の作況を現実に展望往時を回想し専た感無量なり、よって概況を誌し後世人の記念とする。

昭和31 年8月  中津村農業委員会 中津村農業協同組合

 

愛川町郷土資料館

神奈川県愛甲郡愛川町

陸軍中津飛行場関係の展示

 

四式戦「疾風」の風防

 

陸軍特攻隊

更新日:2010/06/27