都 城

 

都城陸軍飛行隊

太平洋戦争の末期、沖縄攻防戦の火蓋が切って落とされた昭和20年4月には、南九州における

陸海軍の各航空基地から日夜、特攻機が飛び立って行った。そのころ都城には特攻基地として、

西飛行場と東飛行場の二つが有り、第100飛行団、四式戦「疾風」装備の飛行第101・102・103

戦隊および特攻2隊が配備された。

都城の飛行場から出撃した特攻第一陣は、昭和20年4月6日、第一特別振武隊の隊長・林少尉

以下八名が、右翼下に250爆弾と左翼下に増槽を搭載し、西飛行場から沖縄周辺の目標を目指

して南の空へ飛び立って行った。

以来特攻は何回となく続けられたが、同年7月1日、第180振武隊の新田・宇佐美両伍長の二機

が東飛行場を発進したのを最後に、沖縄への特攻は終わった。

都城を発進した特攻機は全部で10隊、全機四式戦「疾風」編成であったため、「都城疾風特攻振

武隊」と呼称された。出撃特攻隊員は79名にのぼり、ほとんどが18歳から23歳の若者たちであ

った。

 

都島公園(都城陸軍墓地)

宮崎県都城市

都城特攻振武隊はやて 慰霊碑

碑文

昭和二十年四月 日本の命運をかけた沖縄攻防戦は凄惨熾烈をきわめた 南九州の陸海軍航空基地

からは 爆弾と片道燃料だけを積み込んだ特別攻撃機が 日夜続々と出撃していった

当時 市の郊外にも東・西飛行場があり 同年四月この基地から初めて四式戦「疾風」特別攻撃機が沖

縄周辺の目標をめざして南の空へ飛び立って行った。以来七月一日まで十七次に及ぶ出撃が行われ 

未だ少年の面差しを残す二十才前後の若い特別攻撃隊員は 戦局の好転と祖国の勝利を信じて南海の

果てに散華したのである。

戦後三十二年の歳月と変容によって思出の基地一帯は当時の面影を偲ぶよすがもない 時あたかも三

十三回忌を迎えるに至って 隊員の遺族や各方面に慰霊碑建立の機運が高まり 本年六月市長を会長

とする奉賛会が結成された 幸にひろく内外から多額の寄付が寄せられ ここに永久平和の願いを込め

て 特別攻撃隊員並びに基地にまつわる殉国の士の英霊を合祀するものである

 

    

慰霊碑部分                             都城基地出撃特別攻撃隊員戦没者碑

 

陸士第五十七期同期生会 鎮魂碑

碑文

都城はやて振武隊員並びに同基地にまつわる殉国の荒鷲達の殊勲を永く讃え残さんと 同期生有志

による燈篭一対と鎮魂の碑をここに建立する

 

都城歴史資料館

宮崎県都城市

  

都城飛行場関係の展示

 

陸軍特攻隊

更新日:2002/11/28