米内 光政

海軍大将

略歴

明治13年 3月 2日 岩手県盛岡市出身

明治34年12月14日 海軍兵学校卒業(29期)

明治34年12月14日 戦艦「金剛」乗り組み

明治36年 5月14日 舞鶴水雷団第一水雷艇隊付

明治37年 2月 6日 日露戦争開戦

明治37年12月30日 佐世保鎮守府付

明治38年12月12日 海軍砲術練習所学生

明治39年 9月28日 軍艦「新高」分隊長

明治40年 5月17日 軍艦「新高」砲術長

明治41年 4月20日 海軍砲術学校教官兼分隊長

明治45年12月 1日 海軍大学校甲種学生

大正 3年 5月27日 旅順要港部参謀

大正 4年 3月20日 ロシア駐在、大使館付武官事務補佐

大正 6年 5月 1日 佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官

大正 7年 4月 1日 軍令部出仕

大正 7年 8月 9日 浦塩派遣軍司令部付

大正 8年 9月 4日 海軍大学校教官

大正 8年12月 1日 軍令部参謀

大正10年11月25日 ポーランド駐在員監督

大正11年12月10日 軍艦「春日」艦長

大正12年 3月 5日 軍艦「盤手」艦長

大正13年 7月18日 軍艦「扶桑」艦長

大正13年11月10日 軍艦「陸奥」艦長

大正14年12月 1日 第二艦隊参謀長

昭和 1年12月 1日 軍令部参謀兼艦政本部技術会議議員

昭和 2年 9月 1日 第四水雷戦隊司令官

昭和 3年12月10日 第一遣外艦隊司令官

昭和 5年12月 1日 鎮海要港部司令官

昭和 7年12月 1日 第三艦隊司令長官

昭和 8年11月15日 佐世保鎮守府司令長官

昭和 9年11月15日 第二艦隊司令長官

昭和10年12月 2日 横須賀鎮守府司令長官

昭和11年12月 1日 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官

昭和12年 2月 2日 海軍大臣(林内閣)

昭和14年 8月30日 軍事参議官

昭和15年 1月16日 内閣総理大臣

昭和15年 7月16日 米内内閣総辞職

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和19年 7月22日 海軍大臣(小磯内閣)

昭和20年 4月 7日 海軍大臣(鈴木内閣)

昭和20年 8月15日 終戦

昭和20年 8月17日 海軍大臣(東久邇内閣)

昭和20年10月 9日 海軍大臣(幣原内閣)

昭和20年12月 1日 廃官

昭和23年 4月20日 病没(享年68歳)

 

日独伊三国同盟

政治家としての米内光政が直面した最大の問題は、日独伊三国同盟だった。

「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、憂国の至情と広

い視野にたって、客観的な国際情勢の判断を示した。だが当時の海軍次官・

山本五十六が遺書をしたためていたように決して容易なことではなかった。

しかしファッショ攻勢の前に、米内・山本が海軍省を去った後の海軍は枢軸論

の流れに押され、三国同盟の締結、太平洋戦争の開戦、そして敗戦に至る。

 

終戦

米内光政が精魂を傾けたもう一つの問題は、速やかな終戦工作であった。戦

争の継続による苦しみから国民を救うための講和に、「この大事のために、私

の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と不退転の決意で取り組んだ。

終戦の大任を果した後も東久邇内閣に留任し、光輝有る帝國海軍の終焉に

立ち会った。

 

 

円光寺

岩手県盛岡市

墓碑

 

盛岡八幡宮

岩手県盛岡市

銅像

碑文

米内光政氏は盛岡の人 若くして海軍に入り進んで大将 大臣に至り

又内閣総理大臣となる 昭和20年8月太平洋戦争の終局に際し 米

内海軍大臣が一貫不動 平和の聖断を奉じて克くわが国土と生民を

その壊滅寸前に護ったことは 永く日本国民の忘れてはならぬところ

である 逝去十三年至誠沈勇のこの人 今も世にあらばの感を新た

にしつつ この文を撰ぶ

 

先人記念館

岩手県盛岡市

  

米内光政記念室                        銅像

 

果断の提督

更新日:2001/07/31