山本五十六

連合艦隊司令長官、元帥海軍大将

 

略歴

明治17年 4月 4日 新潟県長岡市出身

明治37年11月14日 海軍兵学校卒業(32期)

昭和 9年 9月  日 海軍軍縮会議予備交渉代表

昭和 9年11月  日 中将

昭和10年12月  日 航空本部長

昭和11年12月  日 海軍次官

昭和13年 4月  日 兼 航空本部長

昭和14年 8月  日 連合艦隊司令長官

昭和15年11月  日 大将

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和18年 4月18日 ソロモン上空にて戦死(海軍甲事件)

昭和18年 5月21日 戦死を公表

昭和18年 6月 5日 国葬

 

平時にしたためた遺書「述志」

一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、豈戦場と銃後とを問はむや。優先奮闘戦場の華と散らんは易し、

誰か至誠一貫俗論を排し斃れて已むの難きを知らむ。(中略)此の身滅す可し、其の志奪ふ可からず

 

    

戦艦長門

 

  

戦艦長門艦橋の山本長官

 

海軍甲事件

日本海軍は昭和18年4月7日から「い号作戦」を実行、ソロモン諸島・ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えた。

この作戦は一応の成果を収め、山本長官自らショートランド島方面に視察と激励に行くこととなり、4月13日前線の各基地

に4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知された。

米軍はこの暗号電報を直ちに解読し、山本機撃墜計画を立案し、当日に実行した。

一式陸上攻撃機1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死。2番機に搭乗していた宇垣参謀長ら3名は負傷

したが救助された。

地上から収容にあたった歩兵二十三連隊の蜷川軍医の検死調書によると遺体に銃創は無かったとの記述がみられる。

山本長官の戦死は全軍の士気に大きな影響を与える事が予想されたため、関係者には箝口令が敷かれ、遺骨が東京に

到着した5月21日に戦死の事実が公表され、6月5日に国葬に伏された。

 

ラバウル海軍航空基地 出撃隊員を見送る山本長官

 

  

ラバウル海軍航空基地 出撃機を見送る山本長官

 

  

山本長官機・一式陸攻撃323号機の残骸

 .

  

日比谷公園で執行された国葬                           故郷長岡へ到着した分骨

 

遺詠

天皇の御楯とちかふ真心は と どめおかまし命死ぬとも

 

 

多磨霊園

東京都府中市

山本五十六元帥海軍大将 官墓

 

長興寺

新潟県長岡市

山本五十六元帥海軍大将 分骨墓 (中央)

 

如是蔵博物館

新潟県長岡市

山本五十六元帥海軍大将揮毫「常在戦場」     肖像画             国葬に使用された幟

 

  

    山本五十六元帥海軍大将が着用した軍服                 山本五十六元帥海軍大将揮毫の扇子「神威照八紘」

 

  

山本五十六元帥海軍大将の搭乗機 一式陸攻撃323号機の機関部残骸

 

山本五十六記念館

新潟県長岡市

山本五十六元帥海軍大将の搭乗機 一式陸攻撃323号機の左翼

 

山本五十六記念公園

新潟県長岡市

山本五十六元帥海軍大将 胸像(戦前、霞ヶ浦海軍航空隊にあったものらしい)

 

  

山本五十六元帥海軍大将 胸像                   山本五十六元帥海軍大将 生家(復元)

 

長岡市郷土資料館

新潟県長岡市

山本五十六元帥海軍大将 顕彰コーナー

 

      

海軍省に掲げられていた額                   昭和天皇(右)との写真

 

陸上自衛隊 武器学校

茨城県稲敷郡阿見町

旧土浦海軍航空隊 山本五十六元帥海軍大将揮毫「常在戦場」碑

 

  

山本五十六元帥海軍大将 銅像

 

果断の提督

更新日:2008/08/09