伊藤整一

海軍大将

 

略歴

明治23年 7月26日 福岡県三池郡高田町出身

明治44年 7月  日 海軍兵学校卒業(39期)

大正12年10月  日 海軍大学校卒業

昭和 2年 5月  日 米国に派遣(駐在武官)

昭和 6年12月  日 特務艦「鶴見」艦長

昭和 8年11月  日 巡洋艦「木曾」艦長

昭和10年11月  日 巡洋艦「最上」艦長

昭和11年 4月  日 巡洋艦「愛宕」艦長

昭和11年12月  日 戦艦「榛名」艦長

昭和12年11月  日 第二艦隊参謀長

昭和13年12月  日 海軍省人事局長

昭和15年12月  日 第八戦隊司令官

昭和16年 4月  日 聯合艦隊参謀長(兼)第一艦隊参謀長

昭和16年 9月 1日 軍令部次長

昭和19年12月  日 第二艦隊司令長官

昭和20年 4月 7日 戦死。海軍大将に特進

 

 伊藤整一海軍大将

伊藤整一は駐米武官としてアメリカに滞在していた経験から、当時のアメリカと日本との国力差を理解し、

日米開戦に最後まで反対していた。軍令部次長時、戦争初期の日本の勝利に浮かれた軍令部の参謀達

が戦争の結果を楽観視している時に、アメリカの国力を甘く観ないように強く戒めたと云われる。

開戦前、山本五十六連合艦隊司令長官は、当時第八戦隊司令官であった伊藤整一を参謀長にして欲しい

と海軍大臣に要望していたが、伊藤がほぼ同時期に軍令部次長に転任したので叶わなかった。

 

第二艦隊司令長官に着任後の、昭和20年4月6日、連合艦隊参謀長、連合艦隊参謀長・草鹿中将が大和に

伊藤を訪ね、戦艦「大和」による天一号作戦参加を命令。その作戦は護衛戦闘機を伴わない実質的な特攻作

戦だったため、伊藤は「制空権・制海権もなしの出撃は、沖縄に到達すべくもなく、それを承知の上で、七千人

の部下を犬死させる訳にはいかない」と執拗に疑問を投げかけ反対したが、草鹿中将の「一億総特攻の魁と

なって頂きたい、要するに死んで貰いたいのだ」との一言に心底の不満を隠し命令を受諾した。

伊藤は戦争の行方を諦観し国の将来を若い世代に託す思いが強かったようで、「大和」「矢矧」乗組の少尉候

補生73名に対して出撃直前に退艦命令を下した。

 

そして4月7日、「大和」は米艦載機による総攻撃により撃沈され、伊藤は有賀幸作艦長と共に退艦を拒否し戦

死を遂げた。

伊藤は「大和」の傾斜復元が絶望的で沖縄到達不可が明らかとなった段階で、独断で作戦中止を命令して幾多

の残存将兵の命を全うさせた。本来、現場指揮官には作戦の中止権限は無く、一人も無駄死にさせたくないとい

う思いが伝わってくる。

 

米第5艦隊司令長官 スプールアンス大将

戦艦「大和」沈没の際、攻撃命令を下したのは米第5艦隊司令長官レイモンド・スプールアンス大将であった。

スプールアンスは、明治40年、アナポリス海軍兵学校を卒業し少尉候補生として戦艦「アイオワ」に乗り組んだ遠

洋航海で横須賀に入港、日本連合艦隊旗艦「三笠」を礼訪し司令長官・東郷平八郎に謁見して薫陶を受けたとさ

れている。伊藤が駐米武官としてアメリカに滞在していた時に、スプールアンスと深い親交を結んだ。

スプールアンスは、『ヤマトは世界一の大艦である。私は尊敬するトーゴーが育てた日本海軍の誇りを、トーゴ

ー・スタイルで葬ることがトーゴーの霊にたいする手向けであり、日本海軍の名誉ある最後にもなると思う。だか

ヤマトは飛行機では沈めたくない』とは強調した。しかし武士道精神を発揮したスプールアンスの意図に反し、

「大和」はミッチャー中将率いる第58機動部隊の艦載機に発見された。作戦の完遂を期するスプールアンスは

「You take them(貴官がやれ)」と、米海軍史上最も短い命令を冷静に発したと云う。

 

    

スプールアンス米海軍大将                    伊藤 叡海軍中尉   

 

子息・伊藤 叡海軍中尉

鹿屋基地司令官・宇垣 纏中将は、第二艦隊の特攻出撃の報に接し独断で護衛戦闘機隊を出撃させた。その中

には伊藤の長男・伊藤 叡中尉(兵72)搭乗の零戦も含まれており、父親の最後を空から見送った。

戦艦「大和」沈没から三週間後の4月28日、伊藤 叡中尉は沖縄周辺海域の敵艦攻撃の際、伊江島付近で制空

中の敵機と交戦し戦死。

伊藤整一中将戦死の報せがご遺族に届いたのは伊藤 叡中尉が戦死した当日の4月28日だった。

 

出撃前夜、妻に宛てた手紙

此の度は栄光ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる

覚悟に御座候

此の期に臨み、顧みるとわれら二人の過去は幸運に満ちてるものにして、また私は武人として

重大なる覚悟をなさんとする時、親愛なるお前様に後事を託して何ら憂い無きは、この上なき

仕合せと喪心より感謝致しり候。

お前様は私の今の心境をよくご了解になるべく、私が最後まで喜んでいたと思われなば、お前

様の余生の淋しさを幾分にてもやわらげることと存じ候。

心からお前様の幸福を祈りつつ。

四月五日  整一   いとしき最愛のちとせどの

 

金助坂

福岡県大牟田市

海軍大将伊藤整一之墓

 

伊藤整一海軍大将顕彰碑

碑文

海軍大将伊藤整一君ハ明治二十三年七月二十六日福岡県三池郡高田村ニ生マル幼ニシテ俊秀ノ聞エ高ク長ジ

テ開小学校中学伝習館海軍兵学校海軍大学校ニ学ビ常ニ抜群ノ成績ヲ以テ業ヲ卒エタリ而シテ君ガ全生涯ヲ捧

ゲタル海軍ニ於ケル業績ハ海上ニ陸上ニ又軍令ニ軍政ニ燦トシテ輝クモノアリシガ君ノ真価ハ其ノ優レタル才幹

ニ加オルニ誠実謙虚一点ノ私心ナク真ニ玲瓏玉ノ如キ其ノ大人格ニアリタルナリ

大東亜戦争勃発当時偶偶君ハ軍令部次長ノ重職ニアリ緒戦ニ於ケル我ガ海軍ノ赫々タル大戦果二就テハ大本営

幕僚トシテノ君ノ偉功ヲ永久ニ伝エザルベカラズ不幸ニシテ彼我国力ノ懸隔ハ爾後ノ戦勢ヲ日ニ非ナラシムルニ至

リソノ間君ノ堅忍苦衷亦察スルニ余リアリ

後第二艦隊司令長官ニ親補セラレ麾下ヲ率イテ出撃壮図将二成ラントスルニ先ダチ昭和二十年四月七日九州南

方海上ニ於テ無限ノ恨ヲ呑ンデ軍艦大和卜其ノ運命ヲ共ニセリ噫高潔悲壮ナル君ノ胸中ニ思イヲ致ス時感慨無量

真ニ悼マシキ限リナリキ戦死ノ報上聞ニ達スルヤ海軍大将ニ進メラレ従三位ニ叙シ功一級金鵄勲章並ニ勲一等

旭日大綬章ヲ授ケラル

君逝イテ十有四年ソノ高風卜偉業ヲ偲ビ旧海軍並ニ郷里ノ有志一同相謀リ茲ニ君ノ墓碑ヲ建設シ以テ永ク君ノ偉

功ヲ伝エ併セテ其ノ英霊ヲ慰ムルト共ニ郷党後進ノ士ノ指導ニ資スル所アランコトヲ期ス

昭和三十三年四月七日 元海軍大将 高橋三吉撰

 

沖縄決戦

更新日:2010/08/24