ひめゆり学徒隊

 

昭和20年3月24日

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、

南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。

 

昭和20年4月24日

日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退し、山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになった。

 

昭和20年5月25日

陸軍病院が南部の伊原・山城周辺に撤退し、学徒隊は分散して地下壕に潜んだ。

病院壕の確保が困難となり、負傷兵は原隊への復帰が命じられ、重傷の負傷兵は置き去りされ、病院としての

機能は失われていた。

 

昭和20年6月18日

戦局が絶望的になり、看護婦採用試験合格者を除いて学徒隊は解散を命じられたが、既に沖縄のほぼ全域が

米軍に支配されており、周辺も既に激しい砲撃に曝されていたため、地下壕から出ることは死を意味した。

 

昭和20年6月19日

第三外科壕は黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕内の96名のうち87名が死亡。さらに壕の生存者8名のうち教師

1名と生徒2名は壕脱出後に死亡。第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのは僅か

に生徒5名のみとなった。

第一外科壕・第二外科壕は、米軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出(一部は第三外科壕

へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。

 

ひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは

117名で全体の86%、さらに全体の35%にあたる47名が6月19日に亡くなっている。

 

ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ。

「ひめゆり」の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していた「ひめゆり学徒隊」にちなむ。

「ひめゆり」の名称は、学徒隊員の母校・沖縄県立第一高等女学校の校誌「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の校

誌「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが戦後ひらがなで記載されるようになった。

 

伊原第三外科壕

沖縄県糸満市

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔の記

昭和二十年三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と

沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍

病院の勤務についた。 

戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、

南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして

傷病兵の看護をつづけた。

日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけ

をつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三

外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日第三外科

の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十

名は岩に枕を並べた。

軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名、民間人六名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たち

は壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院

に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真

和志村民の協力により昭和二十年四月 七日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄

師範学校女子部と沖縄

県立第一高等女学校の職員十六名、生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の

心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを

岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

 

伊原第三外科壕

 

納骨堂

 

陸軍美容院第三外科 職員之碑

 

沖縄戦殉職医療人之碑

 

学徒隊の像

 

天子となった看護婦の像

 

赤心之塔

由来

沖縄陸軍病院「伊原第三外科壕」は、このガマに避難していた民間人を追い出して軍用壕とした

「追い出し壕」)だといわれており、戦場を彷徨い殉難した民間人の方々を慰霊するための塔だ

といわれている。

 

多磨霊園

東京都府中市

野田貞雄 墓碑

野田貞雄

教育者・ひめゆり部隊編成者

熊本県出身。東京高師同専攻科卒業後、京都・岡山の高等女学校教授、岡山県視学官・茨城女校長

を経て、昭和18年沖縄師範学校長となる。

昭和20年3月米軍が沖縄に上陸するや、職員生徒により鉄血勤星隊(男子) ・ひめゆり部隊(女子)

を編成し、軍の作戦に従う。沖縄敗戦を迎える 6月19日残った職員生徒を集めて、その労をねぎらい、

死を急がず生き永らえよと論じ、翌20日米軍の猛烈な艦砲射撃を受け戦死した。享年53歳。

明朗、豪放、且つ温情溢れる性格は生徒からの慈父と仰がれ、教育者の鑑として文部大臣の表彰を

受け、健児の塔・ひめゆりの塔に祀られる。

 

本土決戦

更新日:2011/12/03