海軍通信学校

 

沿革

明治36年 2月 海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始(横須賀)

大正 7年 8月 海軍水雷学校に通信部設立

昭和 5年 6月 海軍通信学校として独立

昭和14年11月 神奈川県久里浜に移転

昭和17年 5月 横須賀海軍通信学校と改称

昭和17年 5月 山口県防府に防府海軍通信学校を増設

昭和19年 9月 神奈川県藤沢に海軍電測学校を設立

昭和20年 7月 各校教育を中止
      

 

 

海上自衛隊 第二術科学校

神奈川県横須賀市

海軍通信教育発祥記念碑

 

高野山奥の院

和歌山県伊都郡高野町

海軍通信学校第四十一期慰霊碑

碑文

昭和10年 1月全国より選ばれた精鋭363名は 翌年4月海軍通信学校第四十一期生として卒業

勇躍第一戦部隊へと赴任して行った 以来十ヵ年余 海に陸に空に 幾多の戦域に多くの同期生が

国家存亡の戦いに潔く散華した

ここにおいて戦後三十七年余経過した今日 生存する同期生が相寄り これら英霊の功を永く顕彰

すると共に 戦後永眠された同期の霊をともに祀り 将来順次これに続く同期生一同が この高野

の聖地に集合し 俺お前で戦前戦後 又未来を末永く競い合いの場所をここと定め 氏名記載板を

内蔵してこの碑建つ

 

海軍通信学校第五十二期慰霊碑

 

金剛証寺

三重県伊勢市

海軍通信学校四十三期 慰霊之碑

碑文

我等は昭和十一年一月現役兵として徴募され 横須賀 呉 佐世保の各海兵団に入団 同年四月

横須賀の海軍通信学校に入団 翌十二年四月卒業した 同期生三百八十余名は通信兵として全海

軍の艦船部隊に配属され 同年七月 日華事変勃発 続いて昭和十六年十二月太平洋戦争となり

同二十年八月十五日終戦に至る迄の約十年 北方海域より南海洋上に はたまた上陸等広範なる

全戦線に転戦し この間同期生の約半数が祖国安泰の礎として散った

誠に痛恨の極みである

茲に生存者一同相寄り碑を建立して 戦死並びに病没せる同期生の霊を慰めると共に 恒久平和を

祈願する

 

比叡山延暦寺 横川

滋賀県大津市

五十五期慰霊之碑       五十八期慰霊之碑       六十五期慰霊之碑

 

  

海軍通信学校五十五期 慰霊之碑

 

  

海軍通信学校五十八期 慰霊之碑

 

  

海軍通信学校六十五期 慰霊之碑

 

防府天満宮

山口県防府市

嗚呼 海軍少年電信兵之碑

 

防飛二期生の碑

 

ああ予科練

碑文

昭和20年1月25日 15歳前後の一千有余名の私達は、防府海軍通信学校第二期乙種飛行予科

練習生として入校、ただひたすら厳しい訓練に歯を食いしばり、空腹に耐え、夜半の遠い汽笛に望郷

の涙をこらえた七ヶ月であった その経験は、今も私達の中仁生き続けている

同期生はすべて古希を過ぎた今、残れる力を有志相あわせて、ここに、過ぎし日を偲び、恒久の平和

を祈念し、万感の思いを込めて、この碑を建立する

 

航空自衛隊 防府南基地

山口県防府市

防府海軍通信学校 跡地

昭和16年の太平洋戦争開始後、通信科要員の需要は激増し、従来の教育施設を更に拡大する必要が生じ、

昭和18年に海軍防府通信学校が併設される。

是に伴い、従来の通信学校は海軍横須賀通信学校と改称された。

 

靖國神社

東京都千代田区

みたままつり 海軍通信学校関係の奉納提灯

 

術科学校

更新日:2010/07/18