海軍艦艇殉難史 畝 傍
明治海軍は拡張計画に基づき巡洋艦三隻の建造を計画、英国に「浪速」「高千穂」が、
仏国に「畝傍」が発注された。
明治19年 8月竣工、同年10月18日に日本への回航されることとなり、飯牟礼俊住
海軍大尉以下の八名が回航員として乗り組み、仏側は76名の操艦員が乗り組んだ。
12月 3日、最後の寄港地シンガポールを横浜に向けて出港したが、入港予定の13
日になっても到着せず、その後の捜索でも遂に同艦を発見することは出来なかった。
原因として、トップヘビーによる転覆が考えられるが、その真相は今もって謎に包まれ
ている。
日本政府は同艦の建造費の残金(半額)を払う必要が無くなったが、仏側は保険金で
水雷砲艦「千島」を建造し、残額の回収を試みた。しかし「千島」も納品航海時に遭難
した。
青山霊園
東京都港区
軍艦畝傍乗員哀悼之碑
乗員の墓標
更新日:2007/05/06