粕谷欣三

海軍一等飛行兵曹

 

粕谷欣三 一等飛行兵曹

 

B29体当り

昭和20年 5月 5日午前8時頃、三四三海軍航空隊所属の粕谷欣三一等飛行兵曹は、久留米・太刀洗

方面を爆撃して帰途につくB29の編隊を発見。大村基地から紫電改を駆って大分・熊本の県境で体当りを

敢行、自らも散華した。

これを目撃した地元集落の住民は、戦後になって鎮魂碑を建立して粕谷一飛曹の菩提を弔い、現在に

至るも香華が絶える事は無い。

 

「三四三空隊誌」より

二十年五月五日、一番機市村分隊長、二番機不明、三番機来本飛長、四番機粕谷飛長。Z旗全揚のもと

基地を発進、北九州上空にてB29十機編隊を発見。

高度五千〜六千米くらいにて接敵。一番機攻撃に入る。垂直攻撃で飛行機を背面にして刻一刻敵機B29

に接近する。一番機は攻撃が終わったようだ。

最後尾の右端の一機に照準を合わせる。四百米、三百米、レバーを握る。二十四粍四門が一斉に火を吹

く。赤い線を引いて曳光弾が走る。B29の主翼の付け根を狙う。弾が炸裂するのを確認。攻撃を終わり

三番機の位置に就く。

B29が白煙を引き出した。やった、思わず機上で万歳。二番機、四番機も編隊を組む。粕谷とは外出も

一緒にした仲のよい戦友だ。

第二回目の攻撃も終わり集結した時、四番機の機影は見えず。大分県竹田市の上空であった。なおも逃

げる敵機を攻撃、被弾のB29は胴体と翼が折れて火を吹き大きな輪をえがきながら墜落していった。

大村基地に着陸。一時間、二時間、粕谷飛長は帰ってこない。やっぱり戦死したのだ。本当に淋しい。

戦闘機乗りは孤独だ。明日は俺の番かな。粕谷飛長の冥福を祈る。

 

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余話

墜落したB29の搭乗員12名は福岡の西部軍司令部に送られ、うち8名は所謂「九大生体解剖実験」の

犠牲となった。

 

 

久保地区

大分県竹田市

故海軍一等飛行兵曹粕谷欣三 鎮魂碑

碑文

昭和二十年春遅く大東亜戦争末期に方り 沖縄攻防戦は酣で主要都市は連日の様に空襲を受け 戦局は

好転せず国民は悲壮な決意で本土決戦に備えて居た。

五月五日快晴の朝 北九州を爆撃して南方基地へ帰還中のB29十数機の編隊が現れた。これを追撃する

大村海軍航空隊の日本戦闘機は飛燕の様な速さで襲いかかった。果敢な体当りである。銀翼が傾いて空の

要塞B29は火を噴き乍ら東北方明治村の山中へ墜ちて行った。同時に我が戦闘機も亦当地の上流八百米

の谷深く突っ込んでいった。この戦闘機こそ当時日本海軍が誇る紫電改であり 単身操縦して散華したのは

粕谷少年航空飛行兵未だ紅顔十九才の若桜であった。

遺体は久保公民館に運ばれて安置された。埼玉県入間郡三ヶ島村(現所沢市)の出身である。

宮ヶ瀬川の流れは清く緑滴る渓谷に雄魂は眠ったままである。三十余年を回顧して吾々は相諮り茲に碑を建

て国家永遠の礎を築いた有形無形の教訓を永く後世に伝えんとする。

昭和五十五年三月吉日

 

ここ宮ヶ瀬川のほとり 故郷遠く一人淋しく眠る紅顔十九才の烈士に

一掬の涙と共に一輪の花を賜わらんことを

 

B29墜落の地 殉空之碑

碑文

昭和二十年五月当時日本は敗色濃厚な大東亜戦争末期の極めて悲惨な戦況化にあった。国土は連日

B29に焼かれ、最後の砦 沖縄戦も絶望状態にあり一億国民は悲壮な決意をもって本土決戦を迎えね

ばならぬ運命にあった。

五月五日快晴午前八時すぎ、久留米郊外の大刀洗飛行場を爆撃してその帰途についたB29の編隊に

対し、日本戦闘機これを追撃。熊本県阿蘇郡より大分県直入郡(当地方)上空において壮烈な空中戦を

演じ、日本戦闘機はB29に体当たりを敢行。B29はたちまち火を噴きこの地に激墜した。

日本戦闘機も近くの宮城村芹川に墜落し海軍少年航空兵は母からの手紙を胸に死亡していた。既に落

下傘で降下していたB29の搭乗員十二名中多数のものは狂乱怒号の村民により暴行殺傷され、その中

八名は所謂九大生体解剖実験の犠牲となった。

戦後三十三年たって当時を回想するにこれら犠牲者たちの姿が悪夢のように脳裏より去らず、ここに恩

讐を越えて日米犠牲者たちの鎮魂供養の儀を行いご冥福を祈るとともに、かかる戦争の悲劇を二度と

繰り返さないための貴い教訓となればと念願してこの碑を建立する。

昭和五十二年五月五日 三十三回忌

 

本土防空

更新日:2009/08/20