四日市空襲

 

昭和20年 6月18日 午前 1時38分、四日市上空に達したB29重爆撃機89機が投弾を

開始、1焼夷弾11,000発・567.3トンを投下し、一夜にして全市の35%にあたる市街地

が焦土と化し、死者736人・行方不明者63人の被害を出した。

この6月18日から 8月 8日にかけて9回の空襲を受け808人が死亡した。

 

鵜の森公園

三重県四日市市

四日市空襲殉難碑

碑文

昭和十六年十二月八日に勃発した太平洋戦争は、ポツダム宣言受諾によって、同二十年八月

十五日遂に我が国の敗戦に終わった。

この間、アメリカ空軍重爆撃機B29による日本本土への空襲は日ましに激化し、戦禍はとどまる

ところを知らなかった。海軍燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市市は、前後六回にわた

る苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。わけても最初の爆撃を受けた六月十八日の災禍は凄

惨の一語に尽きる。即ち午前零時四十五分頃から約一時間にわたり、B29三十五機の一万発

におよぶ油脂焼夷弾等の絨毯爆撃により市街地は灼熱のるつぼと化し、退路を絶たれた多くの

市民は、阿鼻叫喚の巷を彷徨した。炎の犠牲となるもの、壕に閉ざされ窒息死するもの、身をか

えりみず消火に一命を賭するもの、あわせて八百余名にのぼった。恐怖の一夜が明けると、一望

焦土と化した焼跡に、ただ呆然とたたずむもの、未だ硝煙のくすぶる中を肉親を求めて右往左往

するもの、まさに戦争のうんだ悲劇である。

終戦後三十五年を経た今日、各方面の浄財によって、ここに新しく四日市空襲殉難碑を建立しそ

の霊の安らかなることを願い、後世悲惨なる戦争の絶滅を期し、世界永久の平和を祈念するもの

である。

 

四日市空襲被災記録

昭和二十年六月十八日、同二十一日、同二十六日

同七月九日、同二十四日、同二十八日

戦災死者     八百余名

重軽傷者    1,733人

被災人口   49,198人

被災戸数   10,478戸

昭和五十五年六月  四日市空襲殉難碑建立委員会

 

都市空襲

更新日:2008/03/02