八幡大空襲

 

昭和19年 6月16日

中国四川省の成都基地から飛び立ったB29爆撃機が八幡へ初空襲。

罹災者300人、死傷者約80人。

 

昭和19年 8月20日

白昼の空襲。

罹災者1,500人、死傷者200人。

 

昭和20年 8月 8日

八幡市中央町から桃園にかけて焼夷弾が投下され、瞬く間に火災が起こり市街地が焼き尽くされた。

小伊藤山の防空壕では退避していた動員学徒と引率の教員、市民など約300人が一度に亡くなった。

全員蒸し焼き状態であったと伝えられている。

罹災者52,562人、死傷者約2,500人。

 

『戦災復興誌第8巻』の記述

焼失 14,380戸罹災面積 922,000坪、罹災人口 54,362人死傷者 2,952人

 

焼土と化した八幡市街

 

焼土と化した八幡市街

 

原子爆弾投下目標・小倉

八幡空襲の翌日の8月9日午前、原子爆弾を搭載したB29「ボックスカー」が小倉上空に飛来、原子

爆弾 投下を3回試みるが、いずれも地上の濃いもやと煙が小倉市街地を覆い隠していたため、目視によ

る爆弾 投下の機会は得られなかった。

気象観測機(別のB29)は長崎上空の視界がはっきりしている事を報告、小倉への原子爆弾投下は中

止 され、11時02分長崎上空で爆発した。

 

原子爆弾の投下目標を決定するに当たり、長崎市 街地の配置および地理的条件(市街地が東西の山に囲

まれ爆風が南北に拡散)がネックになり、長崎は小倉に次ぐ第三目標となった。

しかし原子爆弾の情報は最高機密であったため通常爆撃部隊への情報は無く、八幡は予定通り爆撃され

火災の煙は翌日まで消えず、図らずも原子爆弾投下を妨害し結果として小倉を救う事になった

 

 

枝光地区

福岡県北九州市八幡東区

日本軍戦闘機慰霊碑

碑文

昭和19年8月20日(日)16時頃、米軍の爆撃機数十機による空襲があり、北九州

の上空で日本軍との間に激しい戦いがありました。

その際に攻撃を受けた日本軍の飛行機が、当時住宅密集地であった富坂町(現山王三丁

目)の民家に墜落し住民4〜5人が生命を失いました。この記念碑は、その戦争犠牲者

の霊を慰めようと近所の人々が当初木製の碑を建立していたものを改修したものです。

 

谷口霊園

福岡県北九州市八幡東区

戦災殉難者の碑

碑文

ここに祭る千八百余柱の霊は昭和二十年八月八日鉄都大空襲の嵐にあえなく散った尊い

殉難の人たちである 過ぐる日の苦難を省み明るい未来を指さす者の これら犠牲の人の

身に弔慰の涙そそぐは この国に再びかかる惨禍なきを願う万人の愛と祈りの心である

この祈りもてわれら真に幸福な世代の建設に起ち上る市民のために この碑を建てる

昭和三十年八月八日  八幡市長 守田道隆

 

西鞘ヶ谷地区

福岡県北九州市戸畑区

鞘ヶ谷戦災死三十一柱之碑

 

小伊藤山公園

福岡県北九州市八幡東区

慰霊塔

碑文

この地一帯は丘陵地で小伊藤山と呼ばれ その麓まで家屋が立ち並んでいた 太平洋戦争となり

北から 南から また西から 防空壕が築造された

昭和二十年八月八日午前十時 米空軍による焼夷弾攻撃で 付近一帯は焼け野原となり この防

空壕に 避難した人々は 火焔に包まれ全員窒息死した その数三百人といはれている

戦災復興区画事業により この地を公園とし 戦災死者を追悼するため 昭和二十七年慰霊塔を

建立した

 

平和の女神像

福岡県北九州市八幡東区

 

皿倉山

福岡県北九州市八幡東区

九合目付近で八文字焼が行われる皿倉山

説明

八幡大空襲による戦没者の慰霊として、毎年8月8日(八幡大空襲の日)と8月13日〜15日に八文字焼が

行われる。

 

都市空襲

更新日:2013/12/23