ガラスのうさぎ

 

手記「ガラスのうさぎ」

著者・高木敏子さんは東京・本所区(現在の墨田区)で育った。父は東京でガラス工芸品の

工場を経営していたが、戦争が始まって工場は軍需物資の製造へ転換した。二人の兄が

いたが二人とも徴兵を待たず軍人を志願し、長兄は陸軍軍人として中国戦線へ赴き、次兄

は海軍飛行予科練習生として三重航空隊へ入隊した。

昭和20年 3月10日の東京大空襲で母と二人の妹が行方不明になる。防空壕に避難し

たが余りの熱さに耐えかねて飛び出した所で消息が絶えていた。

昭和20年 5月 7日、東京が再び空襲にあい焦土と化した。敏子さんは家の敷地のあち

こちを掘って、母や妹たちの使っていたものを探した。父が作った大きなガラスのうさぎの

置物が半分溶けて転がっていた。敏子さんは家族が使っていた食器の欠片とともに、ガラ

スのうさぎを大事に手提げに入れた。

父は新たな仕事の準備で新潟に在り、敏子さんは一人で神奈川県二宮町の知合いの家

に疎開していた。その時、次兄は神風特別攻撃隊員として出撃待機していた。

昭和20年 8月 5日、仕事の目途がついた父と新潟へ立つために二宮駅に着いた時、

鋭い金属音とともに敵艦載機P−51が飛来し、駅にいた人達に反復して機銃掃射を浴び

せた。多くの人達が鮮血に染まって倒れ、敏子さんの父もまた病院に運ばれたが既に亡く

なっていた。

 

JR東海道線 二宮駅

神奈川県中郡二宮町

    

ガラスのうさぎ像

碑文

太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日、ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃

掃射を受け、幾人かの尊い命がその犠牲となりました。

この時、目の前で父を失った十二歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き拭く姿

を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は、国民の心に熱い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さ

を強く印象づけました。

この像は私たち二宮町民が、平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました

人たちの友情をたたえるために、多くの方々の援助をいただき建てたものです。

少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。

ここに平和と友情よ永遠に

 

都市空襲

更新日:2002/04/02