東京山の手空襲

 

昭和20年5月25日夜間、米爆撃機B29 502機が東京の山の手地域に来襲し、うち470機が無差別に

焼夷弾を投弾する絨毯爆撃を行った。皇居も含め赤坂・青山・中野などが標的になり、投下された焼夷弾は

3月10日の東京大空襲の倍近い3,258トンで、「東京空襲の総仕上げ」とも言われている。

この空襲での死者数は3,651人で、特に表参道周辺には逃げ遅れた人々が殺到し、多数の犠牲者を出

した。安田銀行 (現:みずほ銀行)の扉の前には黒こげの遺体が山となった。

死者数が東京大空襲での死者数10万人を下回っているが、これは疎開が進んだことや、消火活動より避

難を優先するようになった為だとされている。

 

表参道交差点

東京都港区

和をのぞむ(写真右の石柱)

碑文

太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しま

した。表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が

亡くなりました。

戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。

港区制六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。

平成十九年一月 港区赤坂地区総合支所 区制六十周年記念事業実行委員会

 

善光寺 東京別院

東京都港区

戦災殉難者諸精霊供養塔

碑文

昭和二十年五月二十五日 為大東亜戦争青山周辺戦災殉難者

昭和四十一年五月二十五日  有志一同建立

 

感通寺

東京都新宿区

喜久井町観音

町慰霊園 造立縁起

昭和二十年五月二十五日 当町ヲ含メテ山手地区ハ米空軍ノ空襲 ヲ蒙リ 悉皆灰塵帰セリ 酸鼻ノ状タル死屍

累々トシテ巷ニ倒シ 残月白骨ヲ照シ 遂ニ惨害シテ異物ト為スノ観ナリキ。

殊ニ夏目坂当地ヨリ早稲田通リ向ケL字型ニ構築セル地下壕 ノ中ニ避難ノ人々ハ 爆撃炎上の焰ト瓦斯ノタメ

犠牲者三百有余名ヲコエタリト。

親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大焼炭化シ、或ハ生ケルガ如

ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。

惨害無残・非命ニ倒レシ犠牲ヲ念フトキ人皆歔欷シ、或ハ慟哭シ、生事ヲ悲シムノミナリ。

ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招ケドモ再ビ来ラズノ感懐ヲ

深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観音菩薩一体ヲ造立シ奉ル事ヲ得タ

リ。

願クバ日米彼我戦没之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没ノ諸英霊鎮魂供養ノ為ナリ。

今ヤ一会ノ大衆ト共ニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像開眼供養ノ法要ヲ営ナミ、

仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、その妙智之力ハ能ク群生の苦尼ヲ救イ、十万諸

々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、トラセ給ワン事ヲ。

昭和五十二年五月二十五日 造立願主感通寺 二十世伝灯 新間日恵

 

「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!と子供を抱えて震える私の手も肉もやけどでじんじん

落ちていきます。」 成願寺報五五号抜粋

昭和二十年五月二十五日米軍山之手地区空襲の一般庶民の惨状だった。

五十八年余を経て今日それも忘却のかなたに去ろうとしている。

後の私達は歴史として伝え継いで行かなければならない努めがあると痛感し平成十六年五月二十五日當山に於て

前対戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も在しますことを顕す

ものである

伝燈 二十一世日良 記す

 

都市空襲

更新日:2020/05/06