堺空襲

 

昭和20年3月13日深夜、堺市上空に米軍機が来襲して焼夷弾を投下、第二次・第三次と続く

波状攻撃により、広範囲に大きな被害を受けた。

その後も、6月15日、6月26日、7月10日、8月10日と五回にわたって空襲を受け、な

かでも7月10日の空襲は激しく、堺市外に壊滅的な被害を与えた。

 

昭和20年7月10日

7月9日のラジオ放送は「和歌山方面を攻撃した米軍機が南方洋上に退去しつつある」旨を報じ

市民の多くはほっとして眠りについた。

しかし翌10日の午前01:30頃にいたり、B29の編隊100数機が大阪湾から堺市街南西

部に浸入、約一時間半にわたり油脂爆弾黄燐焼夷弾を投下、大浜・龍神・宿院一帯が猛火に包

まれ、市の中心部は一夜にして焼野原となった。

 

当時、南海本線「堺駅」付近で交差していた阪堺軌道「龍神駅」のガード下では、猛火に逃げ場

を失った地元住民と電車の乗客とでひしめき、そこへ炎と煙が風に煽られ煙突のように吹きぬけ

一瞬にして300人以上の人が焼死した。

 

死者・行方不明者 約1,860人、焼失家屋 約19,000戸

 

戦災無縁地蔵尊

大阪府堺市

戦災無縁地蔵尊

碑文

于貶昭和廿年七月九日敵機の来襲により瞬時に阿鼻叫喚の巷を現出 当所に命終の無慮八百を算すと

こヽに遠近親疎の喜捨せる浄財もて謹んで地藏尊一躯を敬造す 願ふところは如上の諸霊の菩提に資

しもって久遠の平和を銘じ并せて有縁無縁三界万霊十方至聖同く覚路に登らんことを云爾(略字)

昭和二十九年十一月吉日 建立者有志一同

 

慰霊の辞

本日第五十回戦災記念日に当り 茲に当時の遭難犠牲者の英霊八百余柱を慰霊法要致し数■の至誠を

捧げたいと存じます

思えば昭和二十年七月九日深夜突如本市に来襲した米機の空襲は余りにも無慙この上なく一瞬して全

市を火災に包み 剰え当龍神駅に停車した急行電車三台の乗客即ち皆様八百有余名の尊い生命をあた

ら奪い去ったのであります

嗚呼何という長恨事であり 痛嘆の極みでありましょう

この稀有の惨禍による戦災犠牲者の霊魂は其の後豪雨の朝も朔風の夕も只々荒れるに任せ 誰一人とし

て香華を手向けて供養する者も無きままに淋しく宙に迷うておられました処 これを見るに見兼ねられ

た当地の篤志家有志各位と相謀られ開眼供養をいとも厳かに執り行われ 爾来四十有余の今日地元皆様

方の温かい香華に慰められて参った次第であります

今日堺佛教会の有難い御協賛を頂き諸霊も定めし沈下で懇ろな法要に浴せられ感謝一入深い事でありま

しょう 願わくは多数市民の御参詣を受けられ大慈大悲の地蔵菩薩の御膝元に衆座済度の御慈悲を賜り

家運長久子孫繁栄の上に広大無辺の御利益垂れ給わらんことを祈願いたします

教師     加賀屋徳松 加賀屋幸徳

保存会会長  金銅巳之助

平成六年七月九日  加賀屋みさ江

 

説明版

1945年(昭和20年)、日本は戦争の敗色が濃くなり、全国の主要都市の空襲はいよいよ激しくな

りました。堺市も、3月13日、6月15日、26日、7月10日、8月10日の5次にわたって空襲

をうけて廃墟となりました。なかでも7月10日未明の第4次空襲は、当時の市街地の大半が焼失し、

3千人にのぼる人々が死傷するという大きな被害があったため、堺大空襲と呼ばれています。

その時の被災地のなかでも、このあたり一帯は最も凄惨を極めた地域で、焼夷弾による炎と軍需工場か

ら吹き上がる黒煙に包まれ、逃げ場を失った多くの人たちが悲惨な最期を遂げました。

戦後まもなく、地元の有志の方々により被災者の供養がなされ、さらに1954(昭和29)年には、

保存会により地蔵が建立されました。

堺市では、二度と戦争を繰り返さないことを祈念して、ここに銘板を設置するものです。

1998(平成10)年 堺市

 

戦災無縁地蔵尊

 

戦災無縁地蔵尊

 

慰霊堂の内陣

 

慰霊堂の内陣

 

南海本線 堺駅

大阪府堺市

阪堺線「龍神駅」ガード跡の橋脚

 

堺市戦災殉難之地

碑文

堺市は昭和二十年七月十日未明 空襲により旧市ことごとく全焼す とくに旧龍神駅付近及び土居川

内での殉難者多数にのぼる

被災四十周年に当り 人類の幸福と世界の平和を祈念し坂村真民氏の「念ずれば花ひらく」の詩文を

掲げ 名もなき花の多くひらかんことを願う

 

念ずれば花ひらく

苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばをわたしもいつのころからか となえるようになった 

そうしてそのたび わたしの花が ふしぎとひとつひとつ ひらいていった

 

内川河川敷

大阪府堺市

堺大空襲を偲び平和を祈念する碑

碑文

先の太平洋戦争において昭和二十年の五次にわたる空襲により千八百七十余柱の堺市民の

尊い生命が失われました。

なかでも七月九日夜半から十日にかけての空襲により、一夜にして堺市旧市街地が消失し、

多くの市民が戦災の犠牲になりました。

ここに戦争の悲惨さを後世に伝え平和を祈るために、堺大空襲を偲び平和を祈念する碑を

建立します。

平成二十一年七月九日  堺市 堺市戦災死没者遺族会

 

超善寺

大阪府堺市

熊野学区 戦死・戦災死者追悼之碑

 

国枝医院

大阪府堺市

空襲の跡をそのまま残す旧大阪窯業且末ア館(消滅)

 

大仙公園

大阪府堺市

堺市出身戦没者6,500余人、堺空襲殉難者1,876人を祀る堺平和塔

 

堺平和塔

 

フェニックス通り

大阪府堺市

戦後の復興を記念して宿院通りに植えられたフェニックスの並木

 

都市空襲

更新日:2012/11/25