小田原空襲
昭和20年 8月15日、午前0時から3時の間、神奈川県小田原市はB29の爆撃により最後の空襲
を受けた。市街地の中心部が直撃され火の海と化し、猛火は夜空を赤く染めて、15日の早朝になっ
て鎮火した。
1,500人以上が罹災、30〜50人がが死亡したと言われているが、正確な被害状況は把握されて
いない。
この爆撃から数時間後、小田原市民は終戦の詔勅を聞いた。
市街の食堂
神奈川県小田原市
小田原空襲の碑
碑文
第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半から早朝にかけ、当地はアメリカ空軍B29
爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。
一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機から来襲、まず照明弾が落とされ、旧甲州街道
沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開、当家は八個の焼夷弾による直撃を受けましたが、警防団の消火活
動で一旦鎮火、しかし十五日午前一時頃炎に包まれました。
高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせて四〇二戸、罹災者一八四四人、負傷者
六五人、死者四八人を数えました。
日本がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、その後も交戦状態は続き、無条件降伏
を決定したのは八月十四日、小田原空襲はその後に行われたもので、国内の他の数カ所の地域と共
に、文字通り第二次世界大戦最後の空襲でした。
市街の会社
神奈川県小田原市
旧青橋の橋桁
昭和20年 8月 米艦載機の機銃掃射による弾痕
更新日:2009/01/25