新潟港銃撃

 

新潟市は信濃川河口を港とする日本海側屈指の港湾都市であり、新潟港と北朝鮮を結ぶ日本海航路は

東京と満州を結ぶ最短路であった。

大戦末期には太平洋側の制海権が保てなくなり、新潟港の重要性は急激に高まった。

 

海上封鎖

新潟市が受けた空襲は、新潟港の封鎖を目的とした米軍による機雷投下が主であり、B29による機雷

投下は昭和20年5月14日から8月1日までの12回を数える。

 

触雷による死亡事故は判明しているだけで9件発生し、死者83人を数える。

触雷年月日 船名 死亡者数
昭和20. 6. 4 貴 船 丸 13
昭和20. 6. 7 祐 昭 丸 3
昭和20. 7. 1 第二天祐丸 3
昭和20. 7. 2 新潟鉄工所艀 28
昭和20. 7. 4 丸 五 丸 3
昭和20. 7.12 興 順 丸 5
昭和20. 7.15 第六地油丸 2
昭和20. 7.19 大 黒 丸 7
昭和20. 8. 2 山 東 丸 19
戦時中小計 83
昭和20. 9.16 松 栄 丸 1
昭和22. 9.22 万 代 丸 3
昭和47. 5.26 海 麟 丸 2
戦後 小計 6
合   計 89

7月2日に触雷した鉄工丸は新潟鉄工所の艀(はしけ)で、信濃川左岸の入船工場と右岸の山ノ下工場との

間の通勤用に運行していた。

午後5時5分、仕事を終えた所員や勤労動員の生徒ら70人ほどが乗る艀が触雷、新潟第一工業学校・新潟

第二工業学校・相川中学校の動員学徒12人と、鉄工所関係者16人の計28人が死亡、後日さらに2人が

死亡した。

終戦後も8隻が触雷し、このうち死亡事件は3件で6人が死亡した。

 

艦載機による銃撃

昭和20年 7月17日

午前10時30分過ぎ、F6FヘルキャットとF4Uコルセア十数機が飛来。新潟市郊外の新潟飛行場が

攻撃されたが死亡者はなかった。

 

昭和20年 8月10日

午前11時45分過ぎ、F6Fヘルキャット16機が新潟飛行場の石油タンクを攻撃、船舶や工場・民家

も攻撃を受けた。空襲による死者は47人、うち43人は船舶乗組員だった。

被災場所 死亡者数
港内 おけさ丸 15
宇 品 丸 19
港外 第七万栄丸 2
よりひめ丸 2
第七 星丸 3
第三新潟丸 1
新潟港湾警備隊附属艇 1
市街地 下山字根室 1
風間小路 2
新潟鉄工所 1
47

 

軍用船「宇品丸」は、触雷して新潟港内の信濃川左岸浅瀬に乗り上げている所を攻撃され、兵士16人・

船員3人が死亡した。

高射砲や機関砲を装備していたため、座礁後も船員約50人・兵士約100人が乗り込んでおり、宇品丸

の迎撃で米軍機1機を撃墜した。

佐渡汽船「おけさ丸」は、信濃川左岸の発着場に接岸するため微速で航行している時に後部甲板を中心に

機銃掃射をを受け、乗客14人・船員1人が死亡した。

 

また米軍は新潟市を原子爆弾投下目標の一つに定め7月25日に計画されたが、原爆投下は実行されず

終戦を迎えた。

 

北部公園

新潟県新潟市中央区

軍用船宇品丸慰霊碑

宇品丸慰霊塔建立の趣意書

大東亜戦争の終戦間近い昭和二十年八月十日米軍の戦斗機(グラマン)数機により新潟港湾附近の

空襲を受けた際 偶々同港山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦し

た為に米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽して逃走した その為港

湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが宇品丸の乗員はほとんど玉砕した

昭和二十九年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の英霊を慰めようと慰霊塔

建立の議あり 茲に当時の市長村田三郎氏の筆を得てささやか乍ら建立を実現し 以来毎年町内会

にて慰霊祭を執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。



嗚呼悲壮 宇品の勇士花と散り その名も数も無きあとの 霊なぐさむと伏し拝む


 

軍用船宇品丸慰霊碑 追悼歌碑

ああ悲壮 世界平和を夢に抱き 玉砕しけり 宇品の勇士

碑文

大東亜戦争の終戦間近い昭和二十年八月十日 新潟港湾付近の空襲を受けた際 山田町側に

停泊中の軍用船宇品丸の勇士は国土防衛に敢然として迎撃奮戦し 乗員はほとんど玉砕した

その慰霊五十年忌に当たり 永遠の世界平和と御霊の安らかなるご冥福を祈念し ここに之

を建立する

平成六年八月吉日

 

水戸教公園

新潟県新潟市

平和祈念碑

碑文

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により

連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被

害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。

さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲と

なり尊い命を亡くされました。また当時、市内の捕虜収容所に収容され、あるいは強制連行されて来ていた外

国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。

あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい

発展を続けております。しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦

争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。

市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた

方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。

平成十年八月十日  新潟市長 長谷川 義明

平成十七年八月  空爆被災を記録する碑の建立委員会

 

新潟港

新潟県新潟市

かつて多くの船が触雷した新潟港(信濃川河口)

 

都市空襲

更新日:2013/09/01