中島飛行機
太田・小泉製作所空襲
中島飛行機 太田製作所
太田製作所(現:富士重工業群馬製作所)は、当時20万uの大工場で鉄道の引込線があり、また南門
から南方向へ約1,000mにある専用飛行場まで、完成した機体の翼を広げたまま搬送できる通称「専用
道路」があった。昭和20年小泉製作所が完成するまでは、陸軍機・海軍機ともに設計開発および生産が
されていた。
太田製作所での生産機数は昭和14年に1,000機を越え、昭和18年には昼夜の2直操業を行い、昭和
19年には最大の3,500機となっている。
従業員数はピーク時に45,000人なったが、熟練工は兵役召集となり素人徴用工が主体になっていた。
また中島飛行機のエンジン工場であった武蔵製作所の空襲や部品工場の空襲により資材不足が表面化
し、代替材料での品質低下と納入遅延で生産計画はままならぬものになっていった。
太田製作所への空襲は、昭和20年2月10日夕刻、B29爆撃機 84機から170トン余りの爆弾と焼夷弾
が投下され、通常爆弾97発が工場に命中、生産途中にあったキ84(疾風)74機が破壊された。
従業員は避難して人的被害は無かった。
2月16日、朝から終日にわたる波状攻撃で、多数の死傷者が発生。
2月25日に三回目の空襲が行われ、爆弾182トン・焼夷弾45トンの投下により、徹底的に破壊された。
中島飛行機 小泉製作所
昭和13年、航空機増産の政府方針により、中島飛行機は太田製作所の大拡張と陸軍発動機専門工場の
武蔵製作所を建設した。
これに刺激された海軍は工場の独立拡充命令を発し、発動機工場として多摩製作所をあて、機体工場には
昭和15年に小泉製作所(現:三洋電機)を建設した。
小泉製作所は敷地132万平方メートルの東洋一の大工場といわれ、主体は機体組立であったが、板金部品
プレス・成形溶接・燃料油圧系統パイプ類の生産も行った。機械部品は尾島工場(現:三菱電機群馬工場)、
尾翼や胴体の一部は館林分工場から供給された。
生産機種は圧倒的な量産体制の「零式艦上戦闘機」と、また「九七式艦攻」「零式輸送機」「二式水戦」「月光」
「銀河」「天山」「彩雲」等を生産した。
小泉製作所への最初の空襲は昭和20年2月25日(太田製作所と同日)、米艦載機群が来襲し111発の通常
爆弾を投下、その後「銀河」の生産が極めて困難となった。死傷者も21名に及んだ。
4月3日夜間には、B29が通常爆弾24発と焼夷弾4発を投下、約半数が工場に命中し板金工場が壊滅的
損害を受けた。
城の内公園
黎明地蔵尊
建立の由来
この黎明地蔵尊は、太平洋戦争末期、昭和二十年四月四日未明、米軍B29爆撃機の空襲により亡くな
られた百余名(町民及び旧中島飛行機株式会社小泉製作所航空院生)の冥福を祈るとともに世界の恒久
平和を願い、荒廃した世相の
敷地内)に建立されたものです。
昭和三十六年地域の開発にともなってこの地に移されたものです。
平成二年十月二十日
黎明地蔵尊
東武鉄道 西小泉駅
中島飛行機太田製作所への引込線跡
更新日:2011/05/29