水戸空襲

 

昭和20年 7月17日 艦砲射撃

午後8時過ぎ、日立市と勝田市の軍需工場が米艦隊の艦砲射撃を受け、砲弾の一部が水戸市吉沼地区

にも落下し21人を超える死者が出た。

 

昭和20年 8月 2日 空襲日日

午前00時30分頃、B29 167機が房総半島東海岸から霞ヶ浦を通過して水戸上空に侵入し1,150

トンの爆弾を投下、市街地の約八割が焼失し242人が死亡した。

 

平和公園

茨城県水戸市

  

平和の像「碧翔」と「水戸市戦災犠牲者名簿」が納められた記念碑

碑文

第二次世界大戦の終焉から、日本は戦争のない平和な社会を築いてきました。水戸のまちは、

水と緑の美しい自然に恵まれ、都市文化と伝統文化の融合した歴史あるまちとして育まれてきま

した。しかし、現在の平和な社会の礎には、多くの尊い命を失った、戦争という歴史があったこと

を忘れてはなりません。

水戸市民もまた戦争と無縁ではありませんでした。ある者は銃弾にたおれ、またある者は肉親を

失い、数多くの悲劇を経験しました。第二次世界大戦末期には水戸のまちも戦災にあい、艦砲射

撃・機銃掃射・焼夷弾攻撃により多くの死傷者を出して焦土と化しました。昭和20年8月2日未明

アメリカ軍のB29による空襲は、水戸市民へ大きな衝撃を与え、その惨劇は今なお語り継がれて

います。

平和の像「碧翔」は、平和を願う多くの市民と水戸市が共同し、戦争の悲惨さを語り継ぎ、再び戦

禍のない世界を希求する水戸市民の平和の象徴として創設したものです。

像の前に築かれた記念碑の前部には、水戸空襲や艦砲射撃の戦災で犠牲になられた370余名

のお名前を記帳した「水戸市戦災犠牲者名簿」が納められています。

 

都市空襲

更新日:2006/05/03