広島原爆 枕崎台風の影響

 

終戦一ヶ月後の9月17日、史上空前の枕崎台風が襲来、特に広島県内での被害が大きく、呉市内では住宅地

背部の急傾斜地の至るところが崩壊し土石流が頻発した。市内だけで1,156人が死亡。

廿日市市(旧 大野町)では陸軍病院が土石流の直撃を受け複数の病棟などが全壊。

医療従事者・治療中の被爆者・京都大学原爆災害総合研究調査班などを合わせて約150名余が犠牲になった。

 

赤十字病院大野結核療養所は多くの結核患者が収容されていたが、昭和20年 5月に大野陸軍病院となり、米

軍の原爆投下以後は多数の原爆被爆者も収容された。

昭和20年9月17日の午後10時20分過ぎ、丸石川で大規模土石流が発生して宮浜地区一帯に山津波が起こり

丸石川の下流部が敷地の中央を貫流する大野陸軍病院を直撃、一瞬にして病院の本館を海の中まで押し流し入

院中の患者と被爆者の殆ど全員と医師・看護婦 156名の尊い命を奪った。

戦争中、松根油を製造する目的で松ヤニを採取するため近隣の山の松の木を根まで掘り返したために、土石流

が発生しやすい状態になっていたと云われ、終戦直後で気象情報も少なく防災体制も不備であったことが大きな

原因だと言われている。

 

尚、枕崎台風の風雨によって広島市内の原爆による放射性物質が洗い流され、早い時期に居住可能になった

という見方がある。

 

米山広場

広島県廿日市市

京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑

碑文

昭和二十年広島の原爆被爆災害当時この地に隣接して約八百人を収容する大野陸軍病院があり、その中央の

病院に約百名、また大野村の国民学校に約千五百名の被爆者が収容されていた。

昭和二十年八月二十七日 中国軍管区指令部から原爆被爆者調査と早急なる対策樹立の為に研究員派遣の

要請を受けた京都大学は、直ちに医学部の教授陣を中中心とし、理学部、物理学者を加えた研究班を組織して

来広、九月三日よりこの大野陸軍病院に本拠を置き、診療研究を開始した。所が九月十七日枕崎台風が襲った。

同夜十時二十分頃山津波が起こり、一瞬にして大野陸軍病院の中を壊滅させ、山陽線路を超えて海中に押し流

し砂中深く埋没せしめた。

このため同病院に入院中の被爆者の殆ど全員並びに職員合計百五十六名の尊い生命が奪われた。この中には

京大真下教授(内科学)、杉山教授(病理学)以下研究班員十一人の殉職者が含まれていた。冷厳なる敗戦化に

あって日夜原爆への対策調査、研究に献身し、しかもその犠牲となられた方々の業績を偲びその冥福を祈る為、

現地である大野町に昭和四十五年九月この記念碑を建立した次第である。建立にあたっては菊地武彦名誉教授

を筆頭に、脇坂、木村名誉教授をはじめ京大関係者の尽力の許、広島県下の諸団体、広島県、市、大野町、原対

協、芝蘭会広島支部その他多数の方々のご支援を戴いた。

経費として、京都大学出身者、近畿財界の有志、広島芝蘭会会員及びその他の広島有志より寄付を頂戴した。

土地は大野町より拝借しその管理は大野町にお願いした。

毎年九月十一日前後の休日を選び、碑の前に於いて京都大学及び広島芝蘭会支部主催で追悼会を行っている。

芝蘭会広島支部内に「碑を守る全」事務所を置く。碑の設計者は京大増田友也教授である。

昭和五十三年七月吉日   京都大学 大野町

 

  

土石流で流されてきた巨岩

 

洗心園

広島県廿日市市

供養塔 観音像

碑文

日本赤十字病院大野療養所に入院中の広島被爆者実態調査研究に来所中の京都大学真下俊一教授以下

十一名と入院中の陸軍疾兵並に被爆者同療養所の医師看護婦等百五十六名は昭和二十年九月十七日の

大風水害のため死歿されました その霊を慰め供養のため之を建立するもの也

昭和四十二年九月十七日

 

都市空襲

更新日:2008/11/24