日出空襲

ひ     じ           .

 

南米航路の豪華客船「あるぜんちな丸」を改造した改装空母「海鷹」は、航空機24機が搭載できる

ものの小型のため海上護衛総隊に配属され、船団護衛や輸送任務、人間魚雷回天の訓練標的艦などに

使われた。

海鷹は昭和20年7月24日に豊後水道で機雷に触雷して座礁・損傷し、日出・城下海岸に曳航され

身を隠したが、海鷹の停泊以来、日出への空襲は毎日のように続いた。

 

7月28日、日出尋常高等小学校(現日出小学校)の教諭で日直だった小田三郎先生は、折からの

襲で畑作当番等で登校していた児童を防空壕に避難させ、全員の無事を確認して最後に自分が壕に入

ろうとした時、銃弾をうけ壕の前で倒れた。享年37歳

 

小田先生の葬儀で朗読された阿部勝校長の弔辞

「・・・全員安全退避を確かめて壕の入口に馳せるや、来襲敵機は海上の軍艦海鷹に対し猛烈なる爆

弾投下 機銃掃射を開始し、我が艦また高射砲を以て反撃5分間に亘りて交戦す。この交戦当初、爆

弾2発は不幸にも君が腹部に、機関弾また下肢に命中し壕前に倒る。壮絶非絶・・・・・」

 

戦後、三十回忌に当たる昭和49年の命日に、かつての教え子・同僚の先生達が資金を出し合い日出

小学校が建つ暘谷城址の石垣に慰霊碑が建立された。

 

暘谷城址

大分県速見郡日出町

小田三郎先生をしのぶ

建碑のことば

故小田三郎先生は明治四十二年七月四日安岐町に生まれる 昭和四年大分県師範学校卒業 爾来教職に精

進し昭和十三年四月日出尋常高等小学校に転じて七年有歳 至誠一貫教育に専念指導力抜群教え子あげて

慈父と仰ぐ 不幸にも終戦直前の昭和二十年七月二十八日の空襲により 校庭下防空壕の前で御殉職

享年三十七才

本年三十回忌にあたり先生の御遺徳を讃え御冥福を祈る為 教え子知友と共にこの碑を建てる

昭和四十九年六月二十八日  小田訓導顕彰碑建設委員会

 

小田三郎先生をしのぶ

 

日出小学校

大分県速見郡日出町

元禄の時鐘 空襲による弾痕

 

暘谷城 元禄の時鐘

 

城下海岸

 

都市空襲

更新日:2012/11/25