日立航空機株式会社立川発動機製作所は、三回にわたり米軍機の空襲を受けた。
昭和20年2月17日 グラマンF6F戦闘機など50機編隊
昭和20年4月19日 P−51ムスタング戦闘機 数機 .
昭和20年4月24日 B−29 101機編隊 .
死者 あわせて110余名
日立航空機 立川発動機製作所
日立航空機株式会社立川発動機製作所は、三回にわたり米軍機の空襲を受けた。
昭和20年2月17日 グラマンF6F戦闘機など50機編隊
昭和20年4月19日 P−51ムスタング戦闘機 数機 .
昭和20年4月24日 B−29 101機編隊 .
死者 あわせて110余名
都立東大和南公園 平和広場
東京都東大和市
日立航空機 立川発動機製作所 変電施設
説明版
この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業
株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
北隣にあった設備で受電した66、000ボルトの電気を3、300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目
を果たしていました。
外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB−29爆撃機の爆弾が炸
裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊
による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機
編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に
電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代
に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。
保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいた
だきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、
末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。
この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会
夥しい弾痕が残る壁面
夥しい弾痕が残る壁面
給水塔(消滅)の遺構
旧日立航空機立川発動機製作所 太平洋戦争戦災犠牲者慰霊碑
碑文
日立航空機株式会社立川発動機製作所は太平洋戦争中陸軍専管航空発動機生産工場として時局の要請に
こたえていた。昭和20年2月17日、4月19日、4月24日と相次いで米軍機の空襲をうけ左記110名の尊い
犠牲者を出し工場は廃墟と化した よってここにこれらの霊を慰めるため碑を建てるものである。
更新日:2007/07/29