本土初空襲
昭和17年4月17日、ドーリットル指揮のB−25中型爆撃機の編隊16機は、米空母「ホーネット」から
発進し初の日本本土の空襲に向かった。
海上哨戒
同年2月から日本海軍は本土東方海上哨戒のため漁船を監視艇として徴用し、南鳥島の北から千島
列島の南までの線を常時哨戒していた。乗組員のうち半数は海軍軍人だったが半数は徴用された漁
船員で、武装は7・7ミリ機銃一丁しかなく、敵に発見されたらまず生還は期せない軽装備だった。
この日「第二十三日東丸」「長渡丸」の二隻が「ホーネット」を発進したB−25の編隊を発見。「第二十
三日東丸」は06:30、06:50の二回にわたり「敵機動部隊発見」を打電したあと、米軽巡「ナッシュビ
ル」から15センチ砲弾938発の砲撃を受け沈没、乗員14名全員が壮烈なる戦死を遂げた。
「長渡丸」は「敵空母二隻発見」を打電したあと、艇を敵艦へ向けて突進させ撃沈された。艇長の前田
兵曹長は、船室に降りピストルをこめかみに押し当て引き金を引いた。
砲撃を受ける「第二十三日東丸」
爆撃
18日正午過ぎ、B−25中型爆撃機13機が東京を目標に京浜地区を爆撃、残る3機は直接西進し、
名古屋、四日市、神戸などを攻撃した。
奇襲を受けた帝都防空部隊の混乱はひどく、高射砲部隊は一機も撃墜できなかった。翌19日には
索敵から帰還する海軍の九六式陸攻を陸軍の戦闘機が銃撃、海軍機の搭乗員一人が戦死した。
人的被害
この日は土曜日で学校の授業は昼までだった。石出巳之助君(高等科一年生、13歳)は教室の
掃除を終え、友達と校門を出ると間もなく空襲警報が鳴った。巳之助君たちは急いで校舎に引き
返し、教室の机の下にもぐろうと廊下を走った。その時、B−25の機銃掃射が彼等を襲い、その
一弾が巳之助君の背中に命中した。駆けつけた人々によって応急措置を施され、2km離れた企
業の医務室に運ばれたが、午後二時に息を引き取った。
翌日の新聞は「鬼畜の敵、校庭を掃射。学童一名死亡」と大々的に報道し、教師は月曜日に登校
した児童に米軍の非道ぶりを話して聞かせた。
石出巳之助君の墓石に刻まれた戒名「悲運銃撃善士」。
東京だけで39人の死者が出たが、「損害は軽微なり」と発表された。
葛飾区教育資料館
東京都葛飾区
巳之助君たちが通っていた水元小学校の遺構
法林寺
東京都葛飾区
石出巳之助君の墓碑
更新日:2002/02/16